愛は死のように強い(雅歌8:5-14)

 雅歌には若者とおとめが互いに求めあう愛の歌が記されていました。この二人はいったいどうなるのでしょうか。最後には結ばれて、楽園で二人寄り添って過ごすようになるのでしょうか。
 
I. 愛は死のように強い(8:5-7)
 3:6同様に、おとめは「荒野から上ってくる者」として描かれています(8:5)。そして、そのおとめの若者への願いの言葉が続きます(8:5b-7)。「わたしを呼び起こさないで下さい」(8:4など)と願い求めていた彼女が、りんごの木の下で、その良い香りに包まれている中で、自らすすんで若者を呼び起こしています(8:5)。そして、自らを彼の心の上、またその腕の上に押された印として下さい、と彼女は願っています(8:6)。印とは粘土などの上に押された指輪の型を指しています。この印は手紙や契約書などに押され、印を押した人がその文書を確かに記したことを表す「署名」の役割を果たしてきました(王の印などは有名)。さらに、印を押した人は、印が押された文書に記されている内容を忠実に行う責任がありました。日本のはんこと同じ働きです。このような背景の中で、おとめは、若者の心と腕の上に押された印に自分はなりたいと願っています。つまり、「願い、決めたことを若者は忠実に実行する」ことを人々に示す証拠とわたしはなりたいと自らを差し出しています。
 それでは、若者が願い、決めたこととは何でしょうか。それはおとめを愛することです。ですから、若者のおとめに対する愛のわざは、単に二人の間の私的な出来事に留まりません。どれほど若者がおとめを愛しているか、彼女の姿を通して全世界中に知らされていくのです。
 天に帰られる直前のイエスは弟子達に「あなたがたは・・わたしの証人となる」(使徒1:8)と語られました。この言葉は、「おとめが若者の印となる」と同じ意味を持っています。つまり、わたしたちキリストの弟子を通して、キリストがどれほどわたしたちを愛し、わたしたちのために犠牲を払って下さったかが世界中に知らしめられます。ですから、キリストのわたしたちへの愛をわたしたちの内に留め続けているならば、それは不適切です。わたしたちの内から溢れ流れ、世界中に知らされていくべきです。
 さて、若者とおとめの間の愛が「愛は死のように強い」(雅歌8:6)と述べられています。つまり、愛と死はその強さにおいて似ているとおとめは語っています。どちらも激しい炎のように輝き、大水や洪水も消すことができないほど燃え、あらゆるものを焼き尽くします(8:6-7)。ただし、わたしたちの願いにかかわらず死はわたしたちを焼き尽くしていきますが、わたしたちが愛を選んだ時、愛によって生きる以外にはどうしようもないほどに愛はわたしたちを焼き尽くし、愛に生きるようにさせます。
 さらに、焼き尽くすほどの愛は「ねたみ」とも呼ばれています(8:6)。「ねたみ」と聞くと、嫉妬心などの否定的な側面が強調されがちです。しかし、旧約聖書の言う「ねたみ」とは、愛する者だけをただ一途に愛し続け、かつ愛する者から同様に愛されることを願う姿を指しています。ですから、「焼き尽くす炎のような愛」とほぼ同義です。このようにして、おとめは若者からの一途な愛を願っています。
 「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である」(申命記4:24)と聖書は神について語っています。聖書は人間の「ねがみ」についてはいつも否定的ですが、主をあえて「ねたむ神」と呼んでいます。なぜなら、この表現は主なる神のわたしたちに対する一途で情熱的な愛を描いているからです。そして、「ねたむ神」である主は、同じ一途な愛をもってわたしたちが主を愛することを願っておられます。更に、一途で情熱的な愛をもってわたしたちを愛しておられるからこそ、神はひとりごであるイエスをわたしたちのために送って下さいました(ヨハネ3:16)。その一方で、情熱的な愛をもってわたしたちを愛しておられるからこそ、主以外の神を慕い求めようとする者に厳粛にさばきを主はお与えになられます(申命記4:23参照)。聖書がわたしたちに証ししている神は、静かで何の感情も表されないような方ではありません。実に感情が豊かで、それを率直にわたしたちに表して下さる情熱的な神です。
 
II. わたしは城壁(8:8-12)
 雅歌はぶどう園に関する歌で始まりました(1:6)。同様に、雅歌はぶどう園に関する歌で幕を閉じようとしています。
 まず、おとめの兄達が彼女のことを歌っています(8:8-9)。彼女はまだ小さく、乳ぶさのない子どもである、と兄達は理解しています。そして、彼女の縁談のある日(直訳は「彼女が語りかけられる日」)にいかにして彼女を守ろうか、思案しているのです。もし彼女が城壁であり、外敵から自らを守ることができるほどの自制心を持っていたらどうでしょうか。彼女の自制心をほめたたえるために、兄達は「銀の塔を建て」ようと考えています。その一方で、もし彼女が扉であるならどうでしょうか。適切と判断した人に対しては、心の扉を自ら開く女性であった時、兄達は「香柏の板でそれを囲もう」と宣言しています。つまり、彼女が扉を開いても「敵」(これは兄達にとってであって、彼女にとってそうとは限らない)が入らないように、守りを固めようと述べています。兄達の過保護な姿を垣間見ることができるでしょう。
 兄達に対して、おとめは自らが城壁であり、また乳ぶさがやぐらのような成人した女性であると告げています。そして、愛する若者に平和をもたらす者こそ自分だ、と言うのです(8:10)。兄達によって守っていただく必要はもうない、自分で自分の選んだ人を受け入れることができる、と過保護の兄達に対して抗議しています。兄達とは対照的な理解です。
 主の情熱的な愛によって生み出され、育てられる時、わたしたちは成熟したクリスチャンとなり、力と知恵を主から頂き、神と共に歩むことができる存在となります。そして、神との平安を日々いただいて歩めます。信仰の歩みの最初の段階では、それなりに守られている必要がありますが、成熟へと向かう時、わたしたちは主の愛と主との交わりのゆえに、健全に自らを守り、平安を生み出すことができます。信仰者としての成熟と自立は、主の愛によってのみ可能です。
 
III. 終わりなき歌(8:13-14)
 若者がおとめを呼び(8:13)、それにおとめが答える(8:14)対話をもって、雅歌はその幕を閉じています。友人たちが彼女の声に注意を払っている現実を知っている若者は、他の人ではなく、自分にその声を聞かせて欲しい、と彼女に願っています。その一方で、おとめは若者に「逃げ去って下さい」(口語訳では「急いで下さい」)と、友人たちの愛だから離れて、芳しい山々の上で、自分と二人きりとなれるように、と求めています。最後までお互いがお互いを慕い求め、まだ実現していない時が来るのを切に望んでいます。雅歌は「ハッピーエンド」で終わってはいません。お互いを求める歌はまだ続きます。
 これはクリスチャンの主との歩みにおいても同じです。この世界に生きている限り、主との交わりにおいて神はわたしたちを完全に満足させられません。わたしたちはいつも主を慕い求め続けるのでしょう。しかし、完全な満足を得ることができないからと言って、主が共におられないのではありません。主はかたわらにおられる、しかしさらにまさった時を待ち望みながら、わたしたちはこの地上の生活を送るのです。主への深い飢え渇きは、終わりの日まで完全に満たされることはありません。主への深い飢え渇きのないクリスチャン生涯は、やがて破綻を迎えるでしょう。安易な満足も問題です。おとめが若者を慕い続けるように、わたしたちもいつも飢え渇きをもって、主をしたい求め続けましょう。