帰れ、シュラムの女よ(雅歌6:4-8:4)

 雅歌における若者とおとめの愛の歌もいよいよ佳境を迎えます。お互いをほめたたえつつ、楽園において二人で過ごすことを願い求めています。しかし、おとめの描写を通して、詩人は統一されたイスラエルの麗しい姿を示しているようにも思えます。
 
I. おとめが放つ美しさと輝き(6:4-10)
 若者によるおとめの姿の第二回目の描写が6:4-10に書かれています(一回目は4:1-8)。若者はおとめを「テルザのごとく」美しく、「エルサレムのごとく」麗しいと語っています(6:4)。町そのものが女性に譬えられることは頻繁にありますが、ここでは、女性が町に譬えられています。テルザは北王国イスラエルの首都であり(列王紀上15:33)、エルサレムは南王国ユダの首都でした。おとめは分裂した二つの国の都が美しく建造されたように、麗しいと若者は歌っています。更に、彼女は「恐るべき存在」(6:4, 10)とも言われています。恐怖心というよりはむしろ、そのあまりの魅力のために近づくのさえおそれおおいと感じてしまうほどの美しさをもっているのでしょう。それゆえに、彼女の目を自分に向けないで、どこか他の所にそむけて欲しい、とさえ若者は思うのです(6:5)。さらに彼女はしののめ(夜明け)、月、太陽に譬えられています(6:10)。彼女の美しさが照らし出す輝きを歌っているのでしょう。
 若者が彼女をそのように描いているのには理由があります。数多くの女性(王妃が60人、そばめが80人、若い女性たちは数多く)が王を取り巻いていたとしても(6:8)、彼女はこれらの人々に勝る、唯一の存在だからです(6:9)。若者にとって、さらには彼女の母親にとっても唯一最愛の存在である彼女を、多くの女性たち、王妃たち、そばめたちも祝福された者と認め、かつほめたたえるでしょう(6:10)。彼女の美しさは、男性たちからだけではなく、同じ女性たちからも称賛されているのです。
 ここで描かれているおとめは、分裂してしまった二つの王国を結び合わせ、そこに平和を生み出す「統一されたイスラエル」を映しているようです。そこでは民がひとつになって主に祈りをささげています。王侯たちが互いに競い合うのではなく、ひとつとなり、一つの民の輝きと美しさを表すのでしょう。さらに、イエス・キリストの十字架によってひとつのからだされたキリストの教会の美しさと輝きも、彼女の姿は示唆しています(エペソ2:14-16)。罪の力は人々を、それぞれがもつ違いと敵対心から生まれる憎しみのゆえに、ばらばらにしていきます。しかし、イエス・キリストの十字架の力は、ばらばらになっていく者たちを、ひとつとし、そこに麗しさと輝きを生み出します。十字架のちからによって、溢れるばかりの魅力を放ち続ける教会となることができるのです。
 
II. シュラムの女の美しさ(6:11-7:13)
 おとめは楽園へ花と実を見るために下ることを歌います(雅歌6:11-12)。そこはくるみの園です。丘から下り、低くなった所で、水が豊かにあるのでしょう。花が咲き、ぶどうが芽を出し、ざくろが花咲いているかどうか、確かめるために、彼女はそこに向かっていきます。楽園で、彼女は若者、王侯のように思える若者のかたわらにいる自分を夢見るのです。
 そのような彼女を呼ぶ声が聞こえてきます(6:13)。「帰れ、帰れ、シュラムの女よ」と呼ぶ声です。「シュラム」とはいったいどこのことを指しているのでしょうか。まず、「シュラム」は「サレム」とかつて呼ばれたエルサレムを指しています(創世記14:18)。さらに、この「サレム」という言葉自体が、「平和、平安」を表すヘブル語「シャローム」から来ていることからわかるように、「シュラム」は平和を示唆してるとも言えます。このようにしておとめを「シュラムの女」と呼ぶことを通して、一つの民の都であるエルサレムを思い起こさせつつ、主がその愛のゆえに与えようとしておられる平和、平安が喚起されます。6:4-10において描かれているおとめの姿と重なる、平和を生み出す統一されたイスラエルが示唆されています。
 おとめの姿の三回目の描写が7:1-9に描かれています。ここでも、シュラムの女と呼ばれているおとめの姿が描写されつつも、ひとつの国であるイスラエルの美しい姿が示唆されています。
 まず、おとめの容姿が足から頭へと描かれています(7:1-5)。サンダルの中の足、名人の手のわざのように美しく形造られたももから尻(7:1)、香料が混ぜられたぶどう酒のようによき香りを放つ丸い杯のほぞ(へそ)、こしは山盛りの小麦、そしてゆりの花がそれを取り囲んでいます(7:2)。双子の子鹿、かもしかのようなちぶさ(7:3)。豊かな実りを生み出す花咲く楽園に譬えられています。さらに、彼女の首は美しく飾られて象牙のやぐらのよう、目はバテ・ラビムの門のほとりにあるヘシボンの町の池、鼻はスリヤの都であるダマスコを見下ろすレバノンの山にあるやぐら(7:4)、そして、頭は海岸沿いに位置するカルメルの山、たくさんの貝を加工してはじめてとれるという高価な紫のような髪の毛で王の心を捉えて離さないと言われています(7:5)。統一イスラエルの町々(ヘシボン、レバノンの山、カルメルの山)の麗しさとその魅力に彼女は溢れています。
 更に、おとめの立ち姿を若者は木々に譬えています(7:6-9)。特に注目されているのは、彼女の豊かなちぶさです。ですから、ナツメヤシの木とそのふさ、ぶどうのふさ、りんごのような香りに彼女を譬え、その木に上り、その枝に取りつこうとまで言うのでしょう(7:7-8)。そして、最後に彼女の口づけの甘き味と香りを「あなたの口づけがぶどう酒のよう」(7:9)と言った所で、若者は言葉を止めます。そして、「わたしの愛する人になめらかに流れ、眠っている者のくちびるくちびるをすべる」(7:9、私訳)とおとめは若者のことばに応えていくのです。一つの詩の言葉を若者からおとめに受け継ぐことによって、二人が口づけを交わしている姿が浮かび上がってきます。そして、おとめが若者を恋い慕うだけではなく、若者もおとめを恋い慕うのです(7:10)。
 シュラムのおとめの描写を通して、統一されたイスラエルの麗しき姿を垣間見ることができます。麗しき町や山を持ち、豊かな実りを生み出す国。輝きに満ち、よき香りを放つ国。その麗しさのゆえに、そこにいたいと恋い慕う国(7:10)。主はそのような自然の美しさと平和を願っておられます。男女の間もそうです。罪のゆえに妻は夫を慕うにも関わらず、夫は妻を治めていた時は終わり(創世記2:16)、お互いがお互いを恋い慕うようになる家族の間の平和も主の願っておられるこkとです。人々が集められている教会が、それぞれの様々な賜物によって実を実らせ、よき香りを放ち、人々がそこに集いたいと心から願う場所になるようにとも主は願っておられるのではないでしょうか(1コリント12:12-27)。
 あたかもエデンの園に帰るように、彼女の故郷に戻り、ぶどうの木が芽ざし、花が咲き、ざくろも花を咲かせたか、一緒に見よう、そこで「わたしはわが愛を与えます」とおとめが若者に願うのです(雅歌7:11-12)。
 
III. 果実の実る楽園で(7:13-8:4)
 楽園の実る恋なす(創世記30:14-16参照)や様々な果物を見ながら(雅歌7:13)、おとめは若者が自分の兄であればと願い、共によき香りと甘い味の溢れる愛を体験することを願っています(8:1-2)。そして、かつて歌われた歌が繰り返されることによって、幕を閉じます(8:3-4)。