わたしの愛する人の姿(雅歌5:2-6:3)

 雅歌におけるおとめと若者の愛は、簡単には成就しません。慕い求めるにもかかわらず、出会えない、出会ったとしても何かの理由があって一緒にいることができない。二人の願いが満たされない状況が延々と続いています。そのような状況の中で、おとめが他の女性たち(エルサレムの娘たち)に若者について語っているのが今日の箇所です。
 
I. 躊躇するおとめ(5:2-8)
 おとめは自らの部屋で眠っていました。しかし、心は目を覚ましていました。音が聞こえ、突然に起こされて、まだ十分に目が覚めていません。しかし、それは彼女が愛する若者が彼女の家の戸をたたいている音です。続いて、彼が外から呼ぶ声が聞こえます。彼女を「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者」とあらん限りの呼び名をもって呼びつつ、「わたしのために開けて下さい」と彼は戸の外で彼女を呼んでいます。羊飼いをしていた彼は野宿をしたのでしょうか、夜露で彼の頭も髪の毛も濡れてしまっています。だから、おとめの家に入りたいのでしょう(5:2)。しかし、とっさのことで、彼女は応えることができません。本当に心から慕っている若者がそこに来ているのに、彼女は戸を開けようとはしません。「着物をぬいだ、足を洗った、だから今は・・」と躊躇しています。あれほど求めていた心が動きません(5:3)。
 若者が戸にある鍵穴に手を差し入れました(「掛けがねに手をかける」は誤訳)。当時の家にも鍵穴がありましたが、それは大きいもので人の手が入るほどのものでした。そこに若者は手を入れ、鍵を開けようとしたのです。残念ながら、それでは鍵を開けることはできません。しかし、彼は試みたのです。それを見たおとめの心は大きく動きました(5:4、なお「心は内におどった」よりは「いたたまれなくなった」の方が適切な訳)。それはおのれの罪のゆえに滅び行くイスラエルの姿を見て、いたたまれなくなり、心があわれみに動く主の姿のようです(エレミヤ31:20)。そこで、彼女は起きて、愛する者のために戸を開けます(雅歌5:5)。「閉ざされた楽園」(4:12)のような彼女が、みずから進んで戸を開けました。しかし、時すでにおそし。彼女が戸を開けた時、若者はすでに帰り去っていました。あまりの失望に、彼女の心は力を失い、死んだと同然になったのです(5:6、なお「わが心は力を失った」という表現はラケルの死に際して用いられている[創世記35:18])。
 若者がそこまで来たのに、それにすぐに応えず、躊躇してしまったために彼に会うことができなかったおとめは、彼を捜し求めました。しかし、見つかりません。彼を呼んでも、だれも応えません(雅歌5:6)。彼女の家にある田舎から町にまで行って彼を探しましたが、彼を見つけることができないばかりか、城壁を守って町を歩く夜回りたちによって撃たれ、傷つけられ、上着をはぎ取られました(5:7)。ですから、おとめはエルサレムの女たちに「わたしの愛する者を見たならば、愛のゆえに自分が病み患っていると伝えてくれ」と願うのです(5:8)。
 外から戸をたたく若者の姿から、イエスが戸をたたいている姿を思い浮かべるでしょう(黙示録3:20)。イエスを迎えたい、と願いながら、なかなか躊躇して開けることのできない人間の姿を雅歌は見事に表現しています。躊躇する心のゆえに、おとめのように時を逃してしまうことがあります。そして、時を逃したがために、結果的に自らが痛み、傷つくような状況にはまっていくこともないわけではありません。わたしたちが罪のゆえに痛み、傷つく姿を見られる主は、もういたたまれなくなるようなお方です。心が内に絞られるような思いをもたれるのです。この主のあわれみの心に気がついたならば、躊躇することなく、主に応えるべきです。閉ざされた心をイエスに開くべきです。主の時を逃してしまったならば、死んだと同然になってしまう危険性もあるのですから。
 
II. 愛する者の姿(5:9-6:3)
 若者に自分のことを告げてくれ、と願ったおとめに対して、エルサレムの娘たちは尋ねます。「あなたの愛する人は、他の人が愛する人に比べてなんのまさる所があるのか、そこまであなたがしきりに願う理由は何なのか」(5:9)。そこで、彼女は5:10-16において、彼の姿をことばによって美しく描きます。実際に彼の彫像を建てることはしませんが、ことばによる若者の彫像と、彼に対するおとめの気持ちがそこには美しく描き出されています。
 ここに描かれている若者は、光り輝く姿で描かれています。まず、「白く輝き、かつ赤く、万人に抜きんでている」(5:10)。おとめが「女のうちの最も美しい者」(5:9)であるならば、彼は「万人に抜きんでる輝きをもつ人」です。続いて、彼の体のあちらこちらの部分が語られます。まず、彼の頭は純金のように輝き、髪の毛はうねっていて、黒いと言っています(5:11)。体の上から、という順番もあるのでしょうが、5:2における彼の呼びかけ(濡れた頭と髪の毛)を受けているのかもしれません。さらに、彼の目は「泉のほとりのはとのよう」(5:12)とその白さが強調されています。彼の頬は「芳しい花の床のよう」、そのくちびるは「ゆり」のようで、没薬の液(溶かした没薬をオリーブ油に混ぜたもの)を滴らせています(5:13)。彼のよい香りをおとめは思い起こしています。このようにして、若者の輝くような姿と素晴らしい香りを彼女はほめたたえています。
 続いて、彼の体に注目が移ります。腕は「宝石をはめた金の円筒」、胴体は「サファイア(または瑠璃)をもっておおった象牙の細工」、足は「金の台の上にすえた大理石の柱」(5:14-15)。その美しく、整った体形を彼女は様々な宝石に譬えています。そして、最後に彼の姿全体を見て、「レバノンのごとく、最高の香柏のようだ」と、香りと共にその立派な姿をほめたたえ、彼のことば、そしてすべての印象が美しく、麗しいとほめたたえています(5:15-16)。
 おとめは若者の像を作ってはいません。しかし、そのことばで彼の姿を描いています。それはあたかもわたしたちが神をほめたたえることと似ています。主は刻んだ像をもって自らを礼拝することを禁じられました。しかし、ことばをもって主の輝き、その香り、その立派な働きを描き、ことばによる「像」によって主をほめたたえることを主は禁じてはおられません。むしろ、聖書には、ことばによる主への賛美が溢れています。わたしたちはどうでしょうか。どれほど、ことばをもって主の素晴らしさを描いているでしょうか。
 さて、若者もおとめの姿をほめたたえ(4:1-15)、ついには彼女を自分のものとしたい、という強い情熱をもっていました(5:1)。しかし、おとめのことばには「若者を自分のものとしたい」という強い情熱は感じられません。むしろ、彼のあまりの素晴らしい姿への感動に満ちています。そして、彼女自身が若者に属する存在であることを誇らしげに思っているようです。もちろん、「わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのもの」(6:3)とお互いがお互いに属していることを語っています。しかし、自らの属している人の素晴らしさを彼女は語っています。
 わたしたちはどれだけ、わたしたちが属している方、イエス・キリストを誇りを持って語っているでしょうか。感動をもって、主イエスの素晴らしいさを歌っているでしょうか。いい加減に、また適当に主を求めている限り、彼女のような愛をもって主を語ることはできないでしょう。雅歌に描かれているおとめの愛の姿から、わたしたちの主への愛を再考させていただきたいものです。