よき香りの園(雅歌3:6-5:1)

 雅歌には香りが満ちています。「みことばを聞く」ことをわたしたちは大切にしていますが、「みことばの香りに触れる」ことも必要なのでしょう。もちろん、そのためにはキリストの香りを放つ人が生み出される必要があります。
 
I. 没薬と乳香の香り(3:6-11)
 愛する若者を捜し求めていた場面(3:1-5)から、情景は荒野へと突然に変化します。荒野をエルサレムへ向かって上ってくる女性がそこにいます(3:6)。彼女からは没薬と乳香、さらには商人が交易するあらゆる香料のよき香りがします。この香りの広がりが煙の柱のように思えるのでしょう。さて、没薬は女性ための香料としても用いられてきましたが(エステル2:12)、乳香は祭壇で主なる神にささげる香りのささげものとして用いられています(レビ6:15)。没薬と乳香を香らせる彼女は、単に美しく装っているだけではなく、主へのささげものそのものを指し示しています。
 その一方で、ソロモンの乗り物(輿)にも注目が集められています(雅歌3:7-11)。王がそこに乗るために、多くの勇士が周りを取り囲んで守っています。この乗り物で注目すべきものはその材料です。レバノンの木で作られ、金や銀、紫の布が用いられています。レバノンの木は神殿の建材であり(列王紀上5:1-12)、紫の布は幕屋を作る際に用いられています(出エジプト26:31など)。ソロモンの輿は、実はエルサレムの神殿を指し示しています。レバノン(雅歌3:9)は乳香を意味するヘブル語「ラボナー」を思い起こさせます。先に述べたように、主へのささげものの香りが指し示されています。
 旧約聖書の時代には、神殿でささげものが主にささげられていました。よき香りがそこにあふれ、香の煙が柱のように天に上っていったのでしょう。クリスチャンであるわたしたちは神殿で主へささげものをささげる必要はありません。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)とあるように、わたしたち自身が主へのささげものであり、今置かれているこの場所で主のめぐみに応えていく歩みこそ、主に喜ばれる礼拝です。主へのささげものとして、よき香りを放ち続けることができます。
 
II. おとめの美しさ(4:1-7)
 若者はおとめの美しさを花園と都エルサレムの姿と比較して、ほめたたえます。
 現代のイスラム教徒の女性のように、当時の女性は顔おおいをつけていました。ですから、彼女の目やほほを直接見ることはできませんでした。ただ顔おおい越しに見るだけだったのです。それでも、若者はおとめの美しさをほめたたえています。その目は鳩のように愛する人をしっかりと見つめ、その髪は黒いやぎの群が山を波打って下るように流れています(4:1)。笑みをたたえた彼女の口から見える歯は、洗われた雄羊のように白く、きれいに対になっています(4:2)。紅の糸のように真っ赤で細い唇と愛らしい口、ザクロのように赤いほお(4:3)。首には美しい装飾具が付けられているのでしょう。その細かい模様は武器倉のように整然と首を美しく飾っています(4:4)。均整のとれた彼女の両乳房を双子の子鹿に譬えています(4:5)。花園で見かける動物の美しさとエルサレムにあったダビデの塔の力強さ、その両方を兼ね備えたおとめを若者はたたえています。再度、没薬と乳香の香りについて参照された後(4:6)、若者は「わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない」(4:7)とほめたたえます。
 「美」の定義は時代と人によって変わります。ところが、わたしたちは周りの人や世間一般が決める価値判断によって「自分は美しい」「自分は美しくない」と判断しがちです。相対的な基準であるはずのものを、絶対視してしまいがちです。その一方で、雅歌から示唆される美の基準は、世間一般のものとは大きく異なります。乳香や没薬のかおりについて繰り返し述べられているように(4:6)、主のめぐみに応えて、みずからを喜んでささげ、主を心から礼拝する者を、「あなたは美しい」と呼んでいます。神の前に美しくあること、かぐわしき香りを放つこそこそ、最も大切なことです。
 
III. 香りと生ける水に満ちた園(4:8-15)
 ここに来てはじめて、おとめは若者から「花嫁」さらに「妹」と呼ばれています(4:8, 9, 10, 11, 12; 5:1)。これらの表現は二人の間の親密さが増している証拠です。しかし、若者はおとめが遠くレバノンとそれに続く山々(アマナ、セニル、ヘルモン)に、そして猛獣の住んでいるような場所にいるように感じています(4:8)。そこに自分が行き、彼女と共にそこから下りてきて、ずっと共にいたい、と切実に願っています。それはおとめが若者の心を奪ったからです(4:9)。口づけの甘い味とそのかおりが彼を捕らてしまったからです(4:10-11)。
 魅力的でありながらも、そこにたどり着くことがむずかしいおとめを若者は「閉じた園、封じた泉」にたとえています(4:12)。この園は彼女の美しさを思い起こさせる果実と香料で満ち溢れています(4:13-14)。さらに、この楽園から人々に命を与える水が絶えず溢れ流れています(4:15)。若者は簡単には近づくことができませんが、園の香りとそこから溢れる水の流れは彼の所にまで届いています。
 ソロモンによって建造された神殿は花園を思い起こさせる意匠があちらこちらにあります。宮の周囲の壁には咲いた花(列王紀上7:29)、聖所には金の花の燭台(7:49)、神殿の廊の柱にはざくろ(7:18)、さらにゆりの花の細工(7:22)、聖所の前にある海もゆりの花に似ています(7:26)。青銅の台にはケルビムとししとしゅろが刻まれ、周囲には花飾り(7:36)。神殿は花園です。永遠に主の宮に住みたい、と詩人も願う(詩篇23:6)花園です。さらに、エゼキエルが幻に見た神殿からは水が溢れ流れていますし(エゼキエル47:1-12)、エデンの園からも多くの川が溢れ流れていました(創世記2:10-14)。
 キリストの香りを放つ秘訣はまず主を求め、主のみ前に留まることでしょう。切なる渇きをもって求める時、神はわたしたちを神の楽園に導き、わたしたちもその香りを放つことができるものへと変えて下さります。さらに、キリストと共に歩む時、生ける水をあふれ流れさせる泉となることができます(ヨハネ7:37-38)。わたしたちは周りに命を与える泉となり、人々を生かす楽園となることができます。キリストにあってあふれ流れる香りと水は、遠くにまで広がり、人々に主なる神の素晴らしさを証しするのです。
 
IV. 閉ざされた園から広がる香り(4:16-5:1)
 閉ざされた園と見なされているおとめ歯、園に風が吹き、その風が園にあふれるかおりを広く散らすように、と願っています。この香りに誘われて、若者が彼女の下を訪れ、共に過ごすことができることを望んでいます(4:16)。事実、香りは若者に届き、彼は園を訪れ、親密な交わりを喜び楽しむのです。花園は「わが園」と呼ばれ、そこにある素晴らしいものはすべて「わが〜」と呼ばれています(5:1)。2:16でおとめが願ったことが現実となっているのです。
 キリストの香りがクリスチャンから放たれた時、それに触れた人々が集まり、彼らもキリストの素晴らしさを味わうようになるのです。そして、キリストに所属する者、特別に選ばれた者となり、共にキリストの香りを放つ楽園となっていくのです。