エゼキエル書21〜32章

 1章から始まった、イスラエルへの裁きの預言はついにそのクライマックスを迎えます。エルサレムの過去、現在、将来を、さらに諸国の将来を語ることを通して、今まさに行おうとしておられることを民に伝えようとしておられます。
 
I. エルサレムの歴史(16、21〜24章)
 イスラエルへの審判を語る部分の最後において、エゼキエルはイスラエルのこれまでたどってきた道を、絵画的な表現で描写しています。
 16章で描かれているエルサレムの姿は、カナンびとの地で生まれ、アモリびとを父とし、ヘテびとを母とする(イスラエルから見ると)外国の出身です(16:3)。彼女は親たちに捨てられましたが、「わたし」つまり主に見いだされ、その妻となる契約を結びます(16:8-14)。しかし、美しさのゆえに、エルサレムは姦淫を行いました。偶像崇拝から始めたものが(16:15-22)、エジプト、アッスリヤ、そしてカルデヤ(バビロン)との政治的同盟という名の姦淫へと移行していきました(16:15-29)。遊女は本来、相手の男性から物をもらって姦淫を行いますが、エルサレムの場合は愛人たちに様々な値を払い続け、その関係を続けました(16:30-34)。そして、この愛人たちから攻め込まれ、エルサレムは打ち砕かれます(16:35-43)。預言者は、サマリヤとソドムという二つの町をエルサレムの姉妹として上げています。驚くべきことにエルサレムの悪しきわざは彼女たちにまさっていました(16:44-52)。このような現実にも関わらず、主は二人の姉妹の幸福を元に返し、契約を破ったエルサレムに回復を与え、契約を立てる、と回復の約束を与えて下さるのです(16:53-63)。
 同様な歴史の表現が23章でも行われています。姉であるアホラ(「彼女の幕屋」の意でサマリヤ)とアホリバ(「わたしの幕屋は彼女の中に」の意でエルサレム)という二人の姉妹の行動が物語られています(23:1-3)。本来は、主が礼拝されるべき二つの都でした。しかし、彼女たちの行った行動がいかに愚かしいことであるかをより性的に露骨な表現をもちいることにより記しています。彼女たちの淫行の対象はアッスリヤ、エジプト、そしてバビロンでした。まず、姉であるアホラが淫行を行い、その結果、淫行の相手であるアッスリヤに殺されます。そのような悲劇を見ていたにも関わらず、妹のアホリバも同じように淫行を行い、ついには滅びの杯を飲み(23:32-34)、淫行の罪の責任を負います。異邦人と関わり、汚された主の神殿は滅びるしかありません。
 これらの絵画的な表現とは別に、22章では直接的にイスラエルへの裁きが語られています。ここでは「もろもろの憎むべきこと」(22:2)が列挙されています。まず、血を流すこと、そして血を流すことによって自らの地位を堅くするイスラエルの君たち。暴虐と不正が寄留者、みなしご、やもめに対して行われています。不品行がまかり通り、安息日が汚されています。聖なるものと汚れたものを区別するはずの祭司たちさえも、律法に違反し、聖なるものを汚しています。主を捨てた国は乱れ、ついには主の怒りをそこに注がれます。
 この主の怒りは、つるぎと火で表現されています(21章)。主はつるぎをさやから抜き、正しい者も悪しきものも、南の者も北の者も、すべての生ける者に対して審判を下され、すべての民がつるぎに渡されます。主ご自身がつるぎをもってユダを攻められ(21:3-5)、バビロンの王もつるぎをもって攻めてきます(21:18-23)。このように、バビロンは主が遣わされた裁きの器です。そして、ユダ南部のネゲブに対して火をもって焼き滅ぼすと主が語られたごとく(20:45-49)、エルサレムに、そしてアンモンの地にも火による滅びが到来するのです(21:28-32)。
 このような警告を踏まえて、第九年の十月十日に臨んだ主の言葉が24章に書かれている。この日、エルサレムはバビロン軍によってはじめて取り囲まれました。ここでは、錆びついたかまに入れられた肉にエルサレムがたとえられています。そして、決して取り除かれないさび(町で行われてきた流血を指す)のゆえに、都に審判が告げられます(24:1-14)。なぜでしょうか。それは審判を通してでしか、都をその汚れからきよめられることができないからです。
 その後、エゼキエルの目の喜ぶ者である、彼女の妻の死が突然記録されています。彼は、彼女のために泣き、嘆くことを禁じられます(24:15-18)。このような行動は一件不自然に見えますが、祭司の出身のエゼキエルにとっては自然な行為でした(レビ21:1-12)。しかし、イスラエルの民の「目の喜ぶ者」である神殿が破壊され、残された人々が殺された時にも、同じように泣き悲しまないようにイスラエルの家は命じられます(24:19-27)。いよいよエルサレムに主の裁きが到来します。主ももはや自らの都の崩壊を悲しまれはしません。滅びを通してでしか、そこをきよめる手はないからです。
 
II. 諸国へのさばき(25〜32章)
 イザヤ書エレミヤ書同様に、エゼキエル書にも諸国への主の裁きのことばが記されています。
 前半(25〜32章)は、ユダ近郊諸国への裁き(アンモン〔25:2-7〕、モアブ〔25:8-11〕、エドム〔25:12-14〕、ペリシテ〔25:15-17〕)に続いて、地中海岸に位置するツロ(26:1-28:19)とシドン(28:20-23)への審判がまとめられています。
 自らの罪ゆえに主の厳粛な裁きを受けイスラエルを見て、あざ笑ったツロに対する主の審判がここに記されています(26:1-6)。バビロン王ネブカデレザルがツロを訪れ、これを包囲し、破壊し、略奪してていきます(26:7-14)。これを見た近隣の諸国の王侯たちは、ツロのために悲しみの歌を歌います(26:15-21)。さらに、27章は、主がエゼキエルに歌わせた悲しみの歌です。ツロの美しさがまず語られています。しかし、「東風」(バビロン軍)による破船によって(27:26)、国の崩壊が訪れ、諸国の王と民は起こった現実に対して恐れおののき、滅ぼされたツロをあざけります。更に、28章では、ツロは自らを神とし、神のような知恵を持っていると誇り、その知恵ゆえに富を増し加えていきます(28:1-5)。さらに、神の園エデンにおいて神と共にあり、完全で、美の極みにあったと記されています(28:11-15)。しかし、ツロはその心の高ぶりのゆえに、神から裁きを受け(28:6-10)、その商売の成功のゆえに罪を犯すようになり、ついには焼き落とされてしまいます(28:16-19)。諸国の罪の根源にあるのは、この神のごとくなる「高ぶり」です。
 後半の29〜32章は、エジプトへの審判の預言です。エジプトは大いなる龍(29:1-6; 32:1-8)、蘆(29:6-9)、エデンの園にある香柏(31章)にたとえられています。しかし、大いなる龍は捉えられ、荒野に投げ捨てられ、ついには滅ぼされます。蘆のつえは裂けます。最も麗しい香柏の木は力ある者たちによって切り倒され、捨てられ、死に渡され、ついには黄泉に下ります。高ぶるエジプトへの裁きを、主はバビロンの王を強めることによって行われます(30:24-26)。特にネブカデネレザル王の名前が記されているのは特記すべきでしょう(30:10-12)。エジプトへの裁きのことばの最後に、エジプトのための嘆きの歌が記されています(32:7-32)。高ぶっていたエジプトが落とされていった下の国、つまり陰府での出来事が綴られています。他の国々もそこに落とされ(アッスリヤ、エラム、メセルとトバク、エドム、シドン)、共に恥を負うのです。