ホセア書

 小預言書に含まれている12の預言書は、長いもので14章(ゼカリヤ書)、短いものでは1章(オバデヤ書)です。これらの預言書が、イスラエルの歴史をたどり、分裂王国、ユダ王国、捕囚、帰還という流れで並べられていますが、そこには一貫して流れるテーマがあります。そのことを覚えつつ、読んでいきましょう。
 
I. 預言者と妻、主とイスラエル(1:1-3:5)
 本書は紀元前8世紀半ば、分裂王国の時代に生きた預言者ホセアに臨んだ主の言葉によって構成されています(1:1)。そのほとんどが北王国イスラエル(またはエフライム)、ヤラベアム二世を王としてもち、その歴史の最後の繁栄を享受していた国に住む民に向かって語られています。
 1:2-2:1は本章全体の概略を、ホセアとその妻ゴメルとのかかわりにたとえて語っています。ゴメルは「淫行の妻」と呼ばれ(1:2)、夫以外の男性との関係を持っていました。その彼女の子どもを受け入れるように主から求められたホセアに、彼女は三人の子どもを産んでいます。エズレル(男)、次にロルマハ(女)、最後にロアンミ(男)。それぞれの名前は「この国」(1:2)、つまりイスラエルと主の関係を象徴的に表しています。エズレルは王宮のあった町の名前であり、そこでの暴虐のゆえに主はエヒウの家、つまりヤラベアムの連なる王家を滅ぼすと語られています(1:4-5)。次に、ロルマハは「あわれまない」という意味であり、イスラエルをゆるさない主の怒りを表しています(1:6)。最後にロアンミは「わたしの民ではない」という意味であり、主を捨てたイスラエルへの裁きの言葉です(1:8-9)。しかし、主はこの国を捨てられず、「わたしの民でない」国は「生ける神の子」「わが民」に、エズレルは裁きの場ではなく、大いなる勝利の場に、そしてあわれみを受けない民は「あわれまれる者」と変えられます(1:10-2:1)。
 2:2-13において、淫行の女が農業における繁栄を求めて(2:5)、恋人(バアル)に従い、さきの夫(主)を捨てたことが指摘されています。しかし、彼女が守ろうとしているすべての祭を主はやめさせ、果樹園を荒野とします。その一方で、主は彼女を荒野へ誘い、そこで再度、正義と公正と慈しみとあわれみの契約を結ばれます。そして、主は豊かな作物をあたえられます(2:14-23)。3章では、もう一度、姦淫を行う女を愛するようにホセアは命じられます。それは「イスラエルの人々がたの神々に転じて、干しぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せされるように」(3:1)、彼も彼女に行うためです。イスラエルは多くの日の間、王も神殿も祭儀もない補修の憂き目に会いますが、やがて彼らは帰ってくることが約束されています(3:4-5)。
 
II. イスラエルの罪とその裁き、しかしあわれまれる主(4:1-11:11)
 本書の中間の部分では、イスラエルの罪がさらに詳細に述べられると共に、主のあわれみの心が幾度となく繰り返されています。
 4:1-3にはイスラエルの問題が明確に記されています。それは真実と慈しみ(「愛情」口語訳)と神を知ることがなく、十戒にそむく生き方だけがそこに溢れているからです。その結果、地も住む者もあらゆる被造物も絶え果てて行きます。主の律法に従わないことから生み出された環境破壊の危機と言ってもいいでしょう。ですから、主はイスラエルと係争されます。4:4-10では律法と主を知る知識を捨てた祭司へ、4:11-19では神を捨て、偶像に犠牲をささげる主の民へ、5:1-7では淫行のゆえに主を知らないでいる祭司と王へ、裁きの言葉が告げられています。
 イスラエルとユダにはさまれたベニヤミンの地の町々でラッパが鳴らされます(5:8)。それはエフライムとユダの間での戦いが起こるからです。しかし、彼らの戦いの本当の敵はお互いではなく、ししのように襲いかかる主であり、だれもその手から救い出すことはできません(5:8-14)。しかし、主はイスラエルを完全に捨てられた訳ではありません。彼らが主のところに帰ってくることを、主を尋ね求めることを切に求めておられます。「主に帰ろう」「主を知ろう」との言葉は、主が民に期待していることばです(6:1-3)。しかし、民の主への愛は信頼できないものとなっており、彼らは神を知り、慈しみを喜ぶものとはなってはいません(6:4-6)。彼ら(祭司も!)は暴虐を働き(6:7, 9)、王と裁き人に反逆し(7:3-7)、主に帰ることをせずに、むしろエジプトへ、アッシリヤへ(7:8-13)、そして偶像バアルへと帰ろうとしています(7:11-16)。
 再度、ラッパが鳴らされるように命じられます(8:1)。なぜ裁きがイスラエルに訪れるのか、その理由が続いて記されています。主の律法を犯し、「主を知る」と言いつつ、実は全く主を知らない現実こそが主の審判の理由です。主は王制そのもの、そして王が造ったサマリヤの子牛、つまり偶像の存在を忌み嫌います(8:1-6)。更に、アッスリヤを同盟国とする罪を(8:7-10)、そして主ではなく他の神々のための祭壇を築き、そこで犠牲をささげ、主ではなくエジプト、そしてアッスリヤへ帰ろうとする姿を指摘しています(8:11-9:6)。士師記19章に描かれているギベアでの出来事のように、預言者たちは腐れはててしまっています(9:7-9)。
 第二部の最後には(9:10-11:11)、イスラエルを愛してやまない主の姿と、主を捨て、その結果、栄光と繁栄から取り残される民の姿が綴られています。まず、荒野のぶどうのごとくイスラエルは主にとって尊い存在であったのに、バアル・ペオル(民数記25章)でバアル崇拝に、ギルガル(サムエル上11章)で王制を求め、主に従うことを第一としなかったこと(9:10-17)。実を結ぶぶどうの木であったのに、偶像への祭壇と子牛の偶像を建造したゆえにベテル(「神の家」)がベテアベン(「罪責の家」)となり、アッスリヤによる捕囚を経験すべきこと(10:1-10)。本来は、若い雌牛であって、穀物を踏み、畑を耕すべきエフライムは、新田ではなく悪を耕し、正義をまくことなく不義を刈り収め、自らの戦車に頼り、結局は打ち破られ、全く滅ぼされること(10:11-15)。主の愛の故にエジプトから呼び出され、歩むことを主から教えられ、愛のうちに導かれたイスラエルは、バアルに犠牲をささげ、エジプトの地へと帰り、アッスリヤびとが王となること(11:1-7)。これらの罪のゆえに主はイスラエルを滅ぼされるのでしょうか。そうではありません。主はイスラエルを捨てられず、審判を願う心は主のうちに変わり、あられみが溢れてきます。彼らを変え、主に従う者とし、帰るべき家に帰らせる、と主は語られます(11:8-11)。
 
III. 主に帰れ(11:12-14:9)
 本書の最後の部分で、主はもう一度、審判の宣告と主に帰ることをイスラエルに求めています。
 エフライムの偽りとして、アッスリヤと組んで、その経済的策略に乗っていることが指摘されています(11:12-12:1)。しかし、彼らの神に帰るようにと主は呼びかけつづけています(12:6)。そのために彼らの父祖ヤコブがベテルで主に出合ったこと、そして主がモーセを初めとする預言者たちを通して自らの民に語りつづけたことが述べられています(12:2-14)。しかし、主の怒りも事実です。偶像にささげものを備え、主に背き、食べて飽き、主を忘れたからです。ですから、イスラエルは死の力に打ち破られ、王や子どもたちの命は奪われていくでしょう(13章)。しかし、主は繰り返し「主に帰れ」(14:1)と呼びかけられます。ゆるしをこい、ささげものを主に備え、アッスリヤに頼らず、馬という武器に頼らない歩みをせよ、と訴えておられます。この招きに応える時、主はゆるし、その愛のゆえに繁栄を元に返されます。偶像から離れよ、主を覚えよ、それこそが知恵ある者の歩みである、と訴えつつ、ホセアの預言は幕を閉じます(14章)。