ケープタウン決意表明(10)

9.私たちは神の民を愛する
 
 徹底的な神のわざを物語った福音(神が約束され、イエス・キリストを通して遂行された)に巻き込まれ、福音の力によって変革された私たちは、単に「キリスト教」という宗教を信じている「信者」ではありません。聖書が語っているように、私たちは「神の民」です。ケープタウン決意表明を見ると、神の民にはいくつかの特徴があります。
 

  1. 神の民は神が「愛し、選び、召し、救い、聖なるものとされた」存在です。福音がそうであるように、神の民も神のわざが生み出したものであり、人間が造りだしたものではありません。ですから、神の民は、神ご自身のものであって、他の何かに所属するものではありません。
  2. 神の民は「一つの民」であり、「あらゆる時代のあらゆる国々の人々」によって構成されています。ですから、この神の民の一員に加えられた私たちは、物理的に孤独なことがあったとしても、実際には数多くの仲間に囲まれています。
  3. 神の民には使命があります。それは、「新創造の一員としてキリストの栄光を分かち合う」ことです。福音が物語る神のみわざによって実現した新創造の現実に私たちが生きることによって、私たちを通してキリストの栄光が諸国の民に伝えられるのです。

 
 神の民とされた私たちが、キリストの栄光を分かち合うという使命を果たすために求められているのが、「互いに愛し合う」ことです。
 

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:11)

 
それは、神に対して反逆と反乱を繰り返してきた私たちを神が愛された、その事実を受けた上で、私たちに求められている生き方です。つまり、「神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)の主の命に応えて、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(5:2)ように、「愛によって歩む」、すなわち「愛の生活を生きる」のです。
 「互いに愛し合うこと」は教会でくり返し語られてきました。そして、わたしたちはそのことをよく知っています。しかし、現実にはできない、と言いがちです。しかし、決意表明はお互いに対する愛を大変厳しい表現で表しています。「神の家族におけるお互いに対する愛は、単なる好ましい選択肢ではなく、逃れようのない命令である」。「できればいいね」という努力目標ではありません。ご自身のわざである福音でわたしたちの巻き込み、新しく造られた神からの逃れようのない命令です。福音に対して従っているならば、この世界をキリストが王として支配していると信じているならば、まず第一に取り組むべき事こそ、「互いに愛し合うこと」なのです。神の民に求められている修行こそ「互いに愛し合うこと」です。神の民が互いに愛し合うことを通して、世界宣教は力強く進められて行くのです。逆に言うと、宣教が進められていない最大の原因は何か、と問われるならば、わたしたちが「互いに愛し合う」という、神からの逃れようのない命令から逃げ続けているからでしょう。
 それでは、具体的に「神の民を愛する」とはどのようなことを行うことでしょうか。「互いに愛し合う」ことの特徴は何でしょうか。
 
A. 愛は一体であることを求める
 
 愛の特徴は、まず、「世界の根深い分断の障壁を越え、人種、肌の色、性別、社会階級、経済的特権、政治的連帯といった障壁を越えて、キリストを信じる者たちが愛によって1つとなる」ことです。人と人との結びつきを引き裂き、一つとなることが不可能であるかのように見せる様々なものを乗り越える時、宣教が前進します。言い換えるならば、神の民がイエスの「弟子であることを、皆が知るように」なり(ヨハネ13:35)、この世界は神がイエスを「お遣わしになったことを、信じるように」なるでしょう(17:21)。
  このようにして、健全な協力関係(パートナーシップ)が誕生した時(なあなあですます温情主義、与えるだけ・受けるだけという不健康な依存ではない)、「深い相互愛と相互服従と思い切った経済的分かち合い」、つまり現実に見える形での「互いに愛する」ことが実現していく時、キリストの御名があがめられ、神の宣教は前進します。これは、世界の教会において、また日本国内の教会においてもそうです。
 
B. 愛は率直さを求める
 
 「互いに愛し合う」ことは、「愛に根ざして真理を語る」(エフェソ4:15)ことにおいても現れる。つまり、キリストの御名があがめられず、神の宣教を押しとどめている教会の中にある醜さをごまかし続けているならば、それは「互いに愛し合う」という命令に応答してはいません。逆に、預言者やイエスご自身は、神の民の偶像崇拝や契約不履行を率直に指摘し続けて来ました。この指摘は、単なる攻撃ではありません。(1)神の民が自らの行動について悔い改め、(2)それゆえに神からのゆるしをいただき、(3)結果として、神の宣教にもう一度従事できるように回復されるためです。このことが、現代の教会において行われない限り、世がキリストに引き寄せられることはなく、神の宣教は前進しません。
 
C. 愛は団結を求める
 
 神の民が互いに愛し合うということは、お互いが切れることのできない絆でしっかりと結び合わされることを意味します。ですから、
 

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリント12:26)

 
ということが起こります。信仰とその証しのゆえに迫害を受けた神の民を覚える時、共に痛み苦しむのです。つまり、黙示録においてヨハネがアジアの教会の民と共に経験していることを、わたしたちも世界の神の民と共に経験するのです。
 

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。(黙示録1:9)

 
そのために、情報を集め、その人々のために祈り、支援の運動を行うことができます。そのようなプロセスを通して、「共に苦しみにあずかる」のです。
 しかし、「共に苦しみに与る」とは単なる同情ではありません。苦難の中にある教会から、実は多くのことを学ぶことができます。富と自己充足のゆえに、安心しきっている教会は、富んでいるようで、実は貧困を味わっています。ラオディキアの教会のようです。
 

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(3:17)

 
 共に苦しむことを経験することは、実は、戸口で戸をたたいているイエスを迎え入れて、共に食事をすることに等しいのです(3:20)。神の民と共に苦しんでいるイエスご自身とその苦しみを共有することになるからです。
 
 このようにして、あらゆる分断を越えて一つとなり、愛をもって真理を語り合い、共に苦難に与る時、和解を経験した神の民である教会は、「神の国の今ある最も色鮮やかな表現」をこの世界に示すことができます。そして、そのような神の民の生き方を通して、
 

生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(2コリント5:15)

 
というみことばを、私たち自身が体験するのです。互いに愛し合うことこそが、私たちの為に命を捨てて下さった方のために生きる事だからです。