ケープタウン決意表明(5)

 
四 私たちは子なる神を愛する
 
 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)という主なる神に関するイスラエルへの命令は、

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:10−11)

と告白されている、同じ「主」と呼ばれるイエス・キリストに関する命令でもあります。「一途な忠誠心」という、他のものにはよらないで、ただこの方にのみ依り頼む、という生き方が求められているのです。それは、ケープタウン決意表明にあるように、イエス御自身が「神のみが遂行する統治者としての行為と同じ行為を遂行する」からです。その例として、(1)キリスト御自身が父なる神とともにすべてのものの創造者である(1コリント8:4−6)、(2)復活されたイエスが天に上げられ、神の右に座して、「すべての支配、権威、勢力、主権」の上におかれている王として歴史を含めてすべてを統治している、(エフェソ1:20−23)、(3)終わりの日にキリストがすべての諸国民に公正なさばきをする(2コリント5:10)、(4)御自身の民を救い(マタイ1:21)、民を救いうる唯一の方であり(使徒4:12)、この方を主と口をもって公に言い表すことこそその救いの道である(ローマ10:9)点が上げられます。
 このようにして、子なる神であるキリストは、父、子、聖霊なる神として平等であり、一致して行動をなさり、ひとりの神です。ですから、父なる神への愛と同じ愛をもってわたしたちはキリストを愛することが求められています。もちろん、このキリストへの愛は、これまで述べてきたように、単なる感情的なものではなく、契約に基づいたものです。ですから、「キリストへの信頼、キリストへの服従、キリストを告げ知らせること」によって表されるべきです。そうでなければ、私たちのキリストへの信仰も愛も空しいものとなるでしょう。
 
A. 私たちはキリストに信頼する
 イエス御自身の働きを旧約聖書に描かれているイスラエルの民と分離して考えることは間違っています。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と神はアブラハムに約束され、使命を与えられました。そして、イスラエルの民に与えられたこの特別な使命を果たすために、神はナザレのイエスを任命し、派遣されたのです。イエスが「メシア」(「あぶら注がれた者」の意のヘブル語、ギリシア語では「キリスト」)と呼ばれているのは、イスラエルの王としてイエスがこの使命を果たされたからです。
 イエスの働きを使徒信条は次のように語っています。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

エスのなされたわざについてケープタウン決意表明は、使徒信条に準拠しています。しかし、いくつかの点で特別に強調されている点があります。(1)完全な神であると同時に、完全な人としてこの世界に来られ、肉体を持ち、わたしたち人間の間に住まわれた。(2)十字架だけではなく、その生涯のすべてにおいて、神への誠実と服従のうちに歩まれただけではなく、福音の宣証とその教えとその生き方を通して、イエス御自身を通して始まった神の支配の下でイエスの弟子がどのように生きるかの模範を示された。(3)御自身の働きを通して、神の支配の「悪と邪悪な勢力」に対する勝利を宣言するだけではなく、実際に示された。(4)十字架でなされたわざは、私たちの罪の罰の身代わりだけではなく、死と悪の力への勝利であり、人のみならずすべての被造物の和解とあがないである。(5)復活は十字架の勝利の証しのみならず、終わりの日に実現する人類と被造物の「新創造」の先駆けであり、この復活の望みを抱きつつ人々が歩めるように備えをした。(6)昇天とは単なる天への帰還ではなく、「すべての歴史と被造物の統治」を意味する。(7)再臨時には、悪と死への勝利と、すべての被造物に対する神の普遍的支配を実現する。イエスの生涯によって実現した「悪と死と邪悪な勢力」に対する勝利と神の支配の実現とその希望が特に強調されていることがわかります。そして、わたしたちはこのようなかたちで神の救いの祝福をすべての国に、神の支配を通してもたらしてくださるキリストに信頼するのです。
 
B. 私たちはキリストに服従する
 キリストを信頼する者は、キリストの弟子として、キリストに服従する歩みをするように招かれています。この歩みは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)とあるように、困難と迫害の中、うめきつつ十字架を負っていく道です。しかし、それはイエスを知り、そして愛する道であり、キリストの命令への従順の道です(1ヨハネ2:3−6)。
 「キリストを信頼する」と言って、「主よ、主よ」と祈り求めても、キリストが生きたように生き、キリストが愛したように愛することを拒絶する人たちがいます。それはキリストに服従することを拒絶することであり、危険で、愚かな行動です。わたしたちは人目につく華々しい行動を好み、人々から賞賛されることを求めます。しかし、キリストが求めておられるのは、十字架の道を選び続けることです。終わりの日に「不法を働く者」として断罪されないように、キリスト者ひとりびとりはこの警告のことばに耳を傾ける必要があります(マタイ7:21−23)。
 
C. 私たちはキリストを告げ知らせる
 キリストへの服従の重要性を強調するあまり、キリストが愛したように愛することが宣教のすべてであるかのように勘違いすることがある。しかし、キリストを通して神を知ることができ、キリストを通して神が救いを成就したのですから、使徒たちが行ったように「キリスト以外には救いはない」と、ことばをもってキリストの福音を告げ知らせる責任があります(使徒4:12)。そして、ことばによる宣教は、私たち自身が「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と、さらに「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)とおおやけにことばをもって告白することから始まります。「キリストを見る」という終わりの日が到来するまで、わたしたちが見たことはなくても、こころから愛するキリスト(1ペテロ1:8)とその福音を語り続けるように招かれています。
 キリストがどういう方であり、何をなされたのかを知り、この方に信頼する者は、従順に生きることと忠実に語り続けることが、不可分の宣教の両輪であることを覚えて、歩みつつ、語り続けさせていただきましょう。