エレミヤ書1〜20章

 ユダ王国末期(七世紀後半)、ヨシア王は宗教改革を断行し、王国はその勢いを一時取り戻しました。列強アッスリヤが弱体化したからです。しかし、エジプトとの戦いにおけるヨシアの突然の死以降、国は大国に振り回され、ついには586年、都エルサレムは陥落します。ヨシアからはじまってエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤと続く時代、四十年にわたって、エレミヤは預言者として働きました(エレミヤ1:2-3)。彼は、ベニヤミンの地にあるアナトテの出身で(1:1)、ソロモン王が追放した祭司アビヤタル(列王紀上2・26〜27)の出身で、レビ人であったと考えられています。
 
I. エレミヤの召命と預言者にあたえられるメッセージ(1章)
 主はユダを初め諸国に主の言葉を告げる働きへとエレミヤを招かれました(詳細は旧約聖書概論〔その28〕「預言者とは」参照)。主は彼にやがて訪れる厳粛な審判の宣告と回復の預言を委ねます(1:4-10)。本章ではエレミヤの召命と共に、エレミヤ書の二つの大切なテーマが示されています:「北から襲いかかる災い」(1:14)、つまりバビロンの来襲、そしてバビロンによる主の審判の原因である「ユダの偶像崇拝」(1:16)。
 
II. 不忠実な妻であるユダへのさばき(2〜10章)
 エルサレムに住民に対してエレミヤを通して語られる主の言葉が2章から始まります(2:1)。ユダは、自らの夫を捨てて、他の男のところに行った不忠実な妻として描かれています。主に愛され、主に選ばれた者であるにも関わらず(2:2-3)、主から遠ざかる、そして、出エジプトという偉大な救いのわざを忘れてしまっています。驚くことに、祭司や律法を扱う者、預言者さえも主を求めなくなっています(2:5-8)。なぜこのような不忠実が怒ったのでしょうか。それは彼らが主を捨て、他の神々、特にバアルを慕っているからです。彼らは「むなしいものに従って、むなしくなり」(2:5)、「その神を神ではない者と取り替え」(2:11)てしまいました。「生ける水の源である」主を捨て、「自分で水ためを掘った」が、それは「こわれた水ためで、水を入れておくことのできないもの」でした(2:13)。このようなユダの裏切りのゆえに、主は「わたしは争い、厳粛な審判を下す」(2:9)と宣言しておられます。
 なぜユダは主に対する背信の歩みをしているのでしょうか。それは、北王国ではびこっていた偶像崇拝を彼らが見てきたからです。北王国の滅亡(主からの離縁状!)を目の当たりにしていたにもかかわらず、ユダは同じ罪を犯しています(3:6-10)。だから、主はイスラエルに「帰れ、わたしのもとに帰れ」(3:12, 22; 4:1)と招き、ユダにもこの招きの声をかけておられます。
 ユダは主に帰るのでしょうか。残念ながら、そうではありません。むしろ、4〜6章を読み進めていく時、主が厳粛なさばきを彼らに下すことが預言されています。全地は荒れ地となります(4:23-28)。主が強力な軍勢を遠くからユダに送り(5:15-17)、この「北から来る災い」によってシオンが壊滅するからです(6:22-23)。しかし、来るべき北からの災いに対して脅威を感じず、「主の神殿がエルサレムにあるから、都はなにがあっても滅びることはない」と偽りの安心感を民は抱いています。そこで、エレミヤは主のさばきの言葉を説教します(7章)。約束の地での安息の約束は、公正と正義が行われ、ただ主のみが礼拝されている時、現実となる、と約束されています(7:5-7)。しかし、都では不正が行われ、偶像崇拝がはびこっています。ですから、主の礼拝所であったシロの地が滅ぼされ、北王国が崩壊したように、エルサレムも滅びます(7:8-15)。なお、都の崩壊の予告以上にエレミヤに過酷であったのは、預言者の務めである「民のために主に祈る」ことが主から禁じられたことです(7:16)。
 この後、エルサレムで行われている悪しき偶像崇拝が更に指摘されています:天の女王への供物(7:17)、子どもの犠牲(7:31)、日と月と天の万象(8:2)。それゆえ、人の手による偶像と万軍の主が対比され、偶像崇拝の愚かさと創造者である主の偉大さが語られいます(10:1-16)。
 
III. エレミヤの嘆き(11〜20章)
 11章の冒頭で、「契約の言葉」を聞き、それをユダの民に告げるようにエレミヤは命じられています(11:2)。それはシナイ山で結ばれた契約を指しています。つまり、イスラエルが律法に従う時、約束の地が主から与えられるという主との約束です。しかし、民は頑なで、主の声に耳を傾けようとはしません。そこで、災いがイスラエルに訪れようとしています(11:6-11)。しかし、訪れるのは「災い」だけではありません。主は、再度「民のために祈ってはならない」とエレミヤに語り、とりなしを禁じられました(11:14)。民と神を結ぶ祈りの管が断たれてしまいました。
 この現実を受け、預言者エレミヤは主への嘆きの祈りをささげています(11:18-23; 12:1-6; 15:10-21; 17:14-18; 18:18-23; 20:7-18)。かつての友人が今は敵となっている、というテーマでエレミヤの嘆きは始まります。彼自身の出身地であるアナトテの仲間から命をねらわれているげんじつのゆえに、預言者は主に自らの訴えを述べます(11:18-23)。次に、エレミヤは悪人が栄える現実を主の前に嘆いています。そのような者をも主は守っておられることを知っているからです。むしろ、彼らの上に主の正義が下されるようにと祈っています(12:1-6)。
 「決してつるぎも飢饉も来ない、平安がある」と語る偽預言者たちに対する主の厳粛なさばき(14:13-16)、預言者であり仲介者であるモーセとサムエルが主に取りなしても、主は民を顧みないという宣言(15:1-2)、さらに来るべき残酷な主の審判(15:3-9)を聞いたエレミヤは、「わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか」と嘆きます。これは、ただ主のメッセージを語っていることのゆえに厳罰を受けている現実を憂えるエレミヤの嘆きです(15:10)。主から与えられた言葉を味わい、喜び、それを伝えた結果、自分は迫害を受けていることを主はご存知である、エレミヤは確信しています。しかし、エレミヤの痛みは止まりません。だから、主は私を欺いている、とエレミヤは訴えます(15:15-18)。もちろん、主は、「あなたと共にいて、あなたを助け、救う」と約束をされます(15:19-21)が、エレミヤの苦しみは終わりません。人々からの叱責、「主の言葉はどこか」とのあざけり、これらからの癒しを彼は主に求めています(17:14-18)。
 エレミヤと主との対話が続く一方で、主の審判の時が近づきます。陶器師とその陶器のたとえ(18:1-17)、砕かれた陶器師の瓶のたとえ(19章)、神殿司の長であるパシュルへの預言(20:1-6)を通して、ユダはバビロンによって砕かれる、と主は宣告をされます。エレミヤも、自らを倒そうという人々の言葉を聞き(18:18)、彼らへの主の報復を願っています(18:19-23)。何の悪しきことも行っていない、むしろ彼らのために主に取りなしたエレミヤがそう求めるのは当然でしょう。そして、主の最終宣告を聞いたエレミヤは「主よ、あなたは私を欺いた」と訴えます(20:7)。預言者は、主の審判の預言を自ら進んで語ってはいません。主に選ばれ、心のうちにことばを主がことばをおいたから、彼は語ったのです。しかし、苦しみにあっているのはエレミヤです。友から捨てられ、迫害を受けています(20:8-10)。ですから、自らの状況に対して、主が正義の報復をなさるようにと、エレミヤは祈ります(20:11-13) 。しかし、主が報復されても、エレミヤの嘆きは終わりません。彼の痛みは留まりません。ですから、エレミヤは自らの生まれた日を呪い、預言者として自分にあたえられた使命を恨んでいるのです(20:14-18)。