ゼカリヤ書

 ゼカリヤ書には、ペルシャ王ダリヨスの時代(紀元前520年ごろ)、つまり預言者ハガイと同時期にエルサレムにおける神殿再建の働きを助けた預言者ゼカリヤの言葉が記されています。ですから、当時の指導者であった大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルに対する励ましの言葉が記されています。それとともに、9章以降、「宣告」(口語訳では「託宣」)という題の下に集められている預言の言葉は前半の1〜8章とは異なるため、同じ「宣告」という題で始まるマラキ書との関わりが深いと考えられています。
 
I. ゼカリヤが見、聞きしたこと(1〜8章)
 ゼカリヤ書の前半部分は、ハガイ書同様に、預言が語られた年代によってまとめられています。
 まず、ダリヨスの第二年の第八の月(現代の暦に直すと520年10月頃)に、主のことばが与えられました(1:1-6)。ここでは、「先の預言者たち」(1:4)、たとえばホセアやヨエルが語ったと同じように、「主に帰れ」と命じられています(1:3)。残念ながら先祖たちは、先の預言者たちのことばに聞き従わず、悪の道から立ち返らず、ついには主の怒りを受け滅ぼされてしまいました。だからこそ、捕囚からエルサレムに連れ帰って頂いた民は、主に立ち帰るべきです。さらに、主ご自身が「わたしもあなたがたに帰る」(1:3)と言われています。主がエルサレムに戻り、そこに立てられる神殿に帰られ、そして、主の祝福をイスラエルの上に下す、との約束を覚えて、主に立ち返るように主は奨めています。
 同じ年の第十一の月の二十四日(519年2月頃)に預言者にあたえられたことばと彼が見た幻が、続いて綴られています(1:7-6:15)。これまでの多くの預言者と異なり、ザカリヤは主から直接その幻の意味を教えてもらいません。幻の中に主の使いが現れ、主の使いを通して幻の意味を預言者は悟ります(ダニエル書後半と類似)。さて、最初の三つの幻(1:8-2:4)では、エルサレムの回復が宣告されています。主の裁きが到来してから七十年がすぎようとするのに、主はその約束を果たされるのか、という疑問(1:12)を人々は抱いています。この疑問に対して、主自らがエルサレムに帰り、神殿は再建され、シオンはもう一度祝福を受ける(1:16-17)と主は第一の幻を通して約束されます。さらに、第二の幻では、四つの角と四人の職人を通して、ユダを散らした国々が撃たれることが示され(1:18-21)、第三の幻ではエルサレムが測られ、この町を取り囲むために主自らが火の城壁になるとの約束が与えられます(2:1-5)。だから、シオンに逃れよ、そして主がそこに住まれるゆえに喜び叫べ、と散らされた民に主は奨めています(2:6-13)。
 次の二つの幻では、将来のエルサレムの指導者の問題が取り上げられています。まず、三章では大祭司ヨシュア。一度主によって滅ぼされたエルサレムのごとく、「火の中からとり出した燃えさし」(3:2)であり、汚れた服を着ているヨシュアの不義を、エルサレムの不義と同様に主はゆるされます。そして、大祭司として神殿を正しく治める働きへと招かれます(3:7)。そして、主が備える「一つの若枝」(3:8)、すなわち総督ゼルバベルと共に、エルサレムの指導者になるようと、主はヨシュアに命じられました。四章では、七つのともしび皿と二本のオリーブの木の幻を通して、総督ゼルバベルが励まされています。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊による」(4:6)と、神殿再建は人間の力によるものではなく、神の働きであることを示した主は、ゼルバベルが神殿の再建を完成することを予告されます(4:9)。そして、二人の油注がれた者、ゼルバベル(神殿を再建するダビデの血統の王)とヨシュア(神殿で仕え、イスラエルのあがないを行う祭司)が、協力してエルサレムを導くことが示されています(4:14)。
 最後の三つの幻では、社会的不正が裁かれること(5:1-4)、罪と罪悪が地から取り去れること(5:5-11)、そして、主の霊を現す四台の戦車と四匹の馬が、国々に送り出され、そこでの裁きを終えて、平安をもたらすことが示されます(6:1-8)。そして、平和の一致によって神殿を建て直し、国を治める大祭司ヨシュアと若枝であるゼルバベルの姿が第二部の最後に記されています(6:9-15)。
 先の幻から二年ほど経った、ダリヨス王の第四年の第九の月の四日(518年12月)にゼカリヤに与えられた主のことばが、最後にまとめられています(7〜8章)。まず、七十年の間に年に二度持たれた断食は自己中心的なものではなかったか、との疑問が主から提示されています(7:1-7)。次に、社会的弱者へのあわれみの欠如が先の預言者たちによって指摘されていたにも関わらず、人々は彼らの忠告に聞き従おうとしなかったことが指摘されています。このことが捕囚の原因だったのです(7:8-14)。しかし、シオンをねたむほど愛し、そこに帰り、そこに住み、民を連れ帰り、祝福を回復する、つまり救う、主は宣言されます。だから、悪しきことから離れ、むしろ真実と平和のさばきを町の内で行うように、民は命じられます(8:1-17)。そして、正しい裁きが行われ、真実と平和が愛される時、断食は楽しみと喜びとなること(8:18-19)、そして諸国民がエルサレムへと上ってくることを望むこと(8:20-23)が預言されています。
 このようにして、イスラエルに対する主の約束の成就のために、主がエルサレムに帰ること、二人の指導者がもちいられて、主の霊の力によって神殿が再建されること、主に立ち帰った人々によって公正と正義がなされることが必要です。主は回復を備えて下さっている、だから、その招きに応えて主に従いなさい、と預言者は民を励ましているのです。
 
II. ゼカリヤの宣告(9〜14章)
 ゼカリヤ書の後半は「宣告」という標題で二つの部分(9〜11章、12〜14章)に分けられます。
 第一の宣告(9〜11章)では、エルサレムに入城する王の姿が描かれています。争いが終わり、平和が到来します(9:9-10)。その時、捕らわれ人は解放され、戦いは終わり、繁栄が回復するでしょう(9:11-10:1)。ところが現実はどうでしょうか。偶像に惑わされている人々は羊のようにさまよい、王である羊飼いがいないので悩んでいます(10:2)。そこで、主ご自身がユダを訪ね、彼らを強くし、ついには彼らを連れ帰ります(10:3-12)。その一方で、預言者自身が羊の群れを養う羊飼いとなるように命じられています(11:4)。残念ながら、その群はやがて打ち砕かれます。主と民の契約をあらわす「慈愛」のつえが折られ、ユダとイスラエルの兄弟関係を表す「結合」のつえもおられるからです。ですから、平和をもたらし、主のみこころを行う王(羊飼い)が必要である、主はその羊飼いを起こそうとしている、しかし、それはまだ現実とはなっていないのです。
 第二の宣告(12〜14章)では、小預言書で繰り返し語られていた「主の日」の到来がテーマとなっています(14:1)。ですから、「その日」という表現が繰り返されています。エルサレムが諸国民によって包囲されるにもかかわらず、最終的には主がこれらの国々を撃たれ、偶像は取り去られます。もはや預言は必要なくなり、主がエルサレムで王となられます。そして、最後には、諸国民が主を礼拝するために、エルサレムへと上ってくるのです。
 主の特別な働きと民を養う王の登場、そして最終的には主ご自身が民の王となることによって、諸国民へ主の祝福が広がる、という主の究極的目標が現実となるのです。