ゼパニヤ書

 小預言書九番目のゼパニヤ書は、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代」(1:1)にゼパニヤが語った預言です。ヨシヤ王の時代(紀元前630年ごろ)、ユダ王国はその最後の短い繁栄を楽しみ、宗教改革が実行されました。しかし、その効果はわずかでしかなく、ヨシアの予期せぬ早い死の後、王国は滅亡への道を進んでいきます。バビロンによる捕囚が射程に入っている時代に、来るべき主の審判を予感させるような預言が本書には綴られています。捕囚前の時代の預言のまとめの書が本書です。さらに、ゼパニヤの系図を見ると、彼の先祖がヒゼキヤ王であることが記されています(1:1)。父の名前は「クシ」、つまり「エチオピア」という名前ですが、それにもかかわらずゼパニヤは確かに王家の血を引き継いでいることが明記されています。
 
I. 主の日の到来(1章)
 1章はその冒頭から、主の厳粛な審判が語られています。地の表からすべての存在(人も獣も)取り除く、と主は宣言されています(1:2-3)。続く1:4-13では、主の裁きの標的がユダとエルサレムに向けられます。ユダとエルサレムにおいてなされている偶像崇拝のゆえに(1:4-5)彼は主に従うことも祈り求める事もしませんでした(1:6)。ですから、主はこの都をたち滅ぼすと宣言されています。また、偶像崇拝から必然的に生まれる不正と略奪、神には善悪の区別などないかのように語る者たちのゆえに、主は商人たちや農夫たちも裁くと告げています(1:10-13)。
 預言者は、主の厳粛な審判を「訪れる(新改訳では『罰する』〔1:7, 9, 12〕と訳される)」という語で表現しています。「主の日は近い」(1:7)、つまり主がこれらの人々をあえて訪れて、彼らの上にふさわしい審判を下す日が近いことが予告されています。ですから、1:14-18では「主の日の到来」が繰り返し宣言されているのです。主の日は決して楽しい日ではありません。怒り、苦難、苦悩、荒廃、滅亡、闇と暗黒、雲と暗やみ、角笛ととき、とあるように(1:15-16)、それは主に罪を犯した人々に対する主の激しい審判の日です。それも、単にユダとエルサレムにだけ下さる審判ではありません。その日の主の審判は、全土に及び、地に住むすべての者が滅ぼし尽くされるのです(1:18)。裁きと審判の預言者として、ゼパニヤは自らを示しています。
 
II. ユダと諸国民を訪れる主(2:1-3:13)
 来るべき主の激しい裁きの日の宣告を受け、預言者は諸国民に「集まれ」と呼びかけています。主の怒りの日に襲われない前に、その行動をとりなさい、と(2:1-2)。また、ユダの民、特に「主の定めを行うこの国のへりくだる者」に対して、主を尋ね求めよ、そうすれば主の怒りの日にかくまわれるかもしれない、と訴えています(2:3)。主を尋ね求めない者への主の裁きが宣言されたから(1:6)こそ、そうではない生き方を追い求めるように、とユダの民に呼びかけているのです。なぜならば、主に祈り求めるところにこそ救いの可能性があるからです。
 それでは、主は本当に審判を下さるのでしょうか。主はその計画を告げられています。まず、2:4-15ではユダ近郊の諸国への主の裁きが宣言されています。2:4において、ペリシテ人の地の四つの町についての主の裁きが述べられた後、「ああ(わざわいだ)」の一言に続いてペリシテ人への主の裁きが述べられています(2:5-7)。町に住む人がいなくなり、そこは荒れ野、牧草地になってしまいます。続いて、モアブとアモンへの裁き(2:8-11)。彼らへの裁きの理由はその高慢であることが繰り返されています(2:8, 10)。最後にクシュ(エチオピア)とアッシリア(2:12-15)。ここでも、「わたしは特別だ」とおごる町の姿が述べられ(2:15)、高ぶる町がやがて荒れ野と化すことが預言されています。
 主の裁きはユダの敵の諸国だけに下るのではありません。2:5同様に、「ああ(わざわいだ)」の一言に続いて、エルサレムについての主の裁きの言葉が告げられています(3:1-5)。国の指導者たち、預言者たち、祭司たちが非難され、彼らが主に信頼せず、人々をむさぼり、聖なるものを汚す者であることが指摘されています。その一方で、この町の中におられ、この町を裁かれる主は、「正しく、不正を行わない」方です(3:5)。諸国民を訪れ、そこに厳罰を下されるように、エルサレムの不正に対しても、主の公義の手が伸ばされるのです。
 確かに主は諸国民を裁かれます(3:6-8)。主の憤りがそこに注がれます。諸国の町は焼き尽くされます。しかし、主を恐れ、懲らしめをあえて受ける者には、別の将来が約束されています。彼らは変えられ、くちびるのきよい民となり、主に祈り、主に仕えるものとなります。諸国民の間から主にささげものを携える民が生まれるのです(3:9-10)。
 同じことが、ユダにも言えます。主は、彼らの中のおごり高ぶる者たち、不正な指導者たちを取り去ります。しかし、「へりくだった、寄るベのない民」が残され、主を避け所とする民を生み出されます(3:11-13)。彼らは、へりくだって、主を求め、義を求め、柔和を求めた、主の定めを行う人々であり(2:3)、ついには、諸国民の地をみずからの所有とします(2:7, 9)。彼らこそ、主に喜ばれる「残りの民」なのです。
 主の日は厳粛な審判の日です。主の審判は、主に敵対する諸国民だけではなく、主に従おうとしないユダに対しても下されます。神はかたよりみられないかただからです。それとともに、主の審判は「破壊」だけが目的ではありません。この審判を通して、高ぶる者たちを取り除き、へりくだった残りの民を生み出そうと主は願っておられます。少数派であってもいい、主に従う民が起こされることを、主は願っておられるのです。
 
III. シオンよ、喜べ(3:14-20)
 主の厳粛な審判と残れる民への祝福の預言を受けて、「残れる民」を象徴するシオンに対して喜びへの招きが綴られています(3:14)。なぜ、彼らは喜ぶことができるのでしょうか。それは主がエルサレムのただ中におられ、その結果、宣告した裁きを終わらせて、敵を追い払われたからです(3:15)。残れる民はもはや災いを恐れる必要はありません。むしろ、勇気をもつべきです(3:16)。それは、イスラエルの王として君臨し、いくさ人ととして敵を追い払われた主は、残りの民、主に忠実な民を大いに喜んでいて下さっているからです。
 来るべき捕囚はこれまで一切示唆されていませんでしたが、本書の最後の部分で、その事が告げられています。主は散らされた残りの民を集め、連れ帰り、名誉と栄誉を諸国民の間であたえることを約束されているからです(3:18-20)。繁栄がもとどおりにされることも約束されています。
 近視眼的になってしまう時、わたしたちは今現在起こっている事が何のよい事も生み出さないのではないか、と失望してしまうでしょう。しかし、ゼパニヤ書はわたしたちに主の大きなプランを示しています。だからこそ、どのような状況にあっても、主を求め、主に祈り、主に従い、多勢に流されず、主を見上げつつ、歩ませていただきたいものです。