ミカ書

 小預言書第六番目の書であるミカ書は、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にユダ王国で活躍した預言者ミカにあった主の言葉が集められています(1:1)。ミカはイザヤとほぼ同時代に生きた預言者ですが、王宮と深いかかわりがあったイザヤと異なり、モレシュテ・ガテ(1:14)という田舎の町に住んでいた彼は農夫の立場から主の言葉を語っています。もちろん、イザヤ書と重なる預言もありますが(4:1-3)、注意深くみる時、同じ預言でも強調点が異なっています。
 
I. 全世界の国々よ、聞け(1〜2章)
 ミカ書では、来るべき破滅の日の預言とその後の希望の日の預言が交互に並べられています。
 最初の破滅の日の預言(1:2-2:11)において、主はまず、全世界のすべての国々に耳を傾けるように命じます(1:2)。それは主が裁き主として地上に降りてこられ、最初に北王国イスラエルの都であるサマリヤをその偶像崇拝のゆえに撃ち、そこを廃虚とされるからです(1:3-7)。しかし、主の裁きはイスラエルにとどまりません。南王国ユダとエルサレムの罪のゆえに、悲しみの声が国中に響きます(1:8-16)。それはユダの若い者たちも捕らえられていくからです(1:16)。
 さらに「わざわいだ(ああ)」によって始まる一連の託宣を通して、人々の相続地と家を奪い去り、社会的弱者の所有物をかすめ奪い、その家から追い出す人々の姿が描写されています。主はこれらの悪しき人々に対してわざわいを下すように計画しておられるのです(2:1-11)。
 しかし、破滅が主の最後のことばではありません。厳粛な裁きの後、牧者が散らされた羊を集めることが約束されています。捕らわれていった者たちを集め、その前を勝利を持って進んでいく王とその先頭に立つ主の到来が約束されています(2:12-13)。
 
II. イスラエルの指導者たちよ、聞け(3〜5章)
 預言者イスラエルの指導者たちに「聞け」と命令を出しています(3:1)。彼らは国の正しい治めかたである公義を知っているはずです。しかし、実際は主の民を食いものにし(3:2-3)、正義を曲げ、不正を行っています(3:9-10)。預言者たちは民を惑わせ、たくさんの支払いをしてくれる者だけに良い事を告げています(3:5, 11)。律法を教えることが務めである祭司たちさえ富んだ者にしか教えることをしません(3:11)。指導者たちの不正のゆえに、主は、彼らの祈りに答えず、預言者に主の言葉をあたえません(3:4, 6-7)。そして、エルサレムは廃虚と化します(3:12)。しかし、ミカは国の指導者たちとは異なります。力、霊、公義、勇気に満ちた彼はイスラエルとユダの罪を臆することなく宣言し続けるのです(3:8)。そのことは、もう既に、ここまで告げられた事から推測できるでしょう。
 しかし、指導者たちの罪のゆえに、エルサレムは廃虚と化し、もう再建されないのでしょうか。いいえ。審判がすべての終わりではありません。「終わりの日に」廃虚の上に主の家(神殿)が再建され、異邦の民が律法を求めてそこに、集まり、主はそこで王として君臨されます。国々は戦いを終え、平和に住み、農耕に励み、豊かな実りを与えられます。破壊のあとの回復がしっかりと約束されているからこそ、ユダの民は「主の御名によって歩もう」と宣言できます(4:1-5)。その日、主は捨てられた者たち、追いやられた者たちを集め、まことの羊飼いとしてエルサレムで王として君臨されます(4:6-8)。主に忠実な王も大切ですが、エルサレムのまことの王は主であることを忘れてはなりません。
 しかし、主がシオンの山で王となられる前に、民はアッシリアのみならずバビロンにまで捕らえられていかなければなりません。主は捕囚の地で救いのわざを行われ、敵の手からあがなわれるからです。一度、主の民自身が屈辱を経験したあとにはじめて諸国への裁きが訪れます(4:9-5:1)。この救いを導くイスラエルの支配者はベツレヘムという小さな町から起こされます。ダビデの故郷であるこの町から、終わりの日の回復を実現する王が誕生することは永遠の昔から定められたことでした。そして、この新しい王が主の力と威光によって民を導きます(5:2-6)。それと共に、人に望みをおかず、主に信頼する残りの者が露や夕立のように突然現れ、敵を踏みにじっていきます(5:7-9)。そして、敵や偽りの呪術師、偶像が滅ぼし尽くされます。また、イスラエルとユダにこれから起こるべきことを聞け、と命じられた(1:2)国々の内、最後まで聞き従わなかった者たちにも主の怒りと憤りが注がれます(5:10-15)。
 このように、屈辱的な破壊の経験、新しい王の誕生、シオンにおける主の即位、そして、諸国民への裁きと残れる民への祝福はミカ書の中で密接に結び合わされています。
 
III. 山々と丘々よ、聞け(6〜7章)
 諸国に(1:2)、そしてイスラエルの指導者たちに(3:1)、主は「聞け」と声をかけられました。そして、最後に、山々と丘々に主の訴えを聞くように預言者は呼びかけます。これらの被造物はイスラエルとの主の最後の討論の証人だからです(6:1)。自らがかつてイスラエルに行った救いのわざ(出エジプト、指導者、バラクとバラム、約束の地)に対して、あなたがたはどう答えたか、主は問いかけられています(6:3-5)。自らの不十分な応答を知っている民は、この主の訴えに「私は何をもって主の前に進むべきか」(6;6)と答えています。多くのささげものや最も大切な長子のささげものさえも主に対する適切な応答ではありません。ホセア(ホセア6:6)やアモスアモス5:21-24)もすでにこのことを告げています。ミカの預言からも十分に示唆されるでしょう。ですから、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか」(6:8)と預言者は聞き手へチャレンジしています。知っているだろう、それを今、ここで認めなさい、と。主が何よりもその民に求めておられることは「公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」です。社会における正しい裁きと共同体の弱者への愛をもって主と共に歩むことです。このことがイスラエルに今欠けているから、主の厳粛な裁きが語られてきたのです。ですから、6:9-7:6において、預言者は不正の測りによる偽装と暴虐、さらには北王国のアハブ王の道(偶像崇拝)に満ちている現実を叱責しています。血を流すことを求め、自分の利得のために不正を行う結果、友情も家族も崩壊しています。現代の日本社会のようです。そして、豊かな実りはなく、飢饉が国をおおうのです。
 そのような現実を嘆きつつも、預言者は主を仰ぎ、主を待ち望んでいます(7:7)。既に預言されているような、素晴らしい希望の日が、大いなる審判の後に到来するからです。今、敵に倒されているのは、自らの罪のゆえです。しかし、主はやがて光に導いて下さり、敵を恥で包むでしょう(7:8-10)。そして、城壁を再建し、国境を拡げ、主がまことの羊飼いとしてその民を飼う日が来ます。異邦の民がみずからの力を誇った愚かしさを恥じ入り、主のみもとに集まる日が来るでしょう(7:11-17)。ですから、ミカは本書を神への祈りをもって閉じています(7:18-20)。咎をゆるし、いつくしみを喜ばれる主への賛美、罪ととがとその結果の裁きからの救いの切望、そしていにしえからの契約を守られる主の真実への信頼を祈り捧げています。