エレミヤ書35〜52章

 エレミヤ書において、主の来るべき厳粛な審判とその後に続く回復の預言が集められていました(1〜34章)。本書の最後の部分には、主の審判がどのようにユダとエルサレムの上にもたらされたかが、エレミヤの動向を中心にかかれています。
 
I. ユダの崩壊(35〜45章)
 35章では、「酒を飲んではならない」という先祖の命令を長く守ってきたレカブびとの忠実さの姿が、ユダの人々の姿と対比されています。律法と預言者を通して語られた主の言葉をないがしろにしてきたユダとエルサレムには厳粛な審判が下る一方で、レカブびとは長らく絶えることはない、と主は約束されます。ここで示されている「主の言葉を聞こうとはしないユダとエルサレムの姿」は、その王であるエホヤキム(36章)に端的に表されています。エレミヤは主の命に従って、それまで主から告げられたイスラエルとユダと万国に対する預言を口述で自分の書記官バルクに伝え、バルクは書き記した巻き物をエルサレムの神殿において人々の前で読みました(36:1-10)。そのことばを聞いたミカヤは、エホヤキム王にそれを聞かせるよう手配しました。王がこの厳粛な審判の言葉を聞いて、悔い改めることを期待したのでしょう。しかし、王は、それを三、四段聞いただけで、拒絶し、巻き物全部を炉の火で焼き尽くしてしまいました(36:11-26)。エホヤキムの父であるヨシヤは、主の警告の言葉を聞いて、悔い改めましたが(列王紀下22章)、ヨシヤの息子は全く逆の行動をしたのです。ですから、主は、エホヤキムの子孫は王の位に座することはない、と宣告し、来るべき災いの到来を予告されました(36:27-31)。
 エホヤキムの子であるコニヤ(エホヤキン)がバビロンによって王の位をはく奪され、バビロンに捕囚されて行きました(紀元前597年)。その一方で、エホヤキムの兄弟であるゼデキヤがユダの王としてバビロンに立てられました。その当時、エルサレムを取り囲んでいたバビロン軍が、エジプト来襲の知らせを聞いて、一時都から退いていました。たまたまエルサレムから自分の町へ行こうとしたエレミヤは、バビロンに寝返る裏切り者であると誤解され、獄屋にとらわれてしまいます(37:11-16)。ゼデキヤ王は、エレミヤに祈りと預言を幾度も要請します(37:3, 17; 38:14)。しかし、エレミヤは、王はバビロンに引き渡される(37:17)、町はバビロン王の軍勢の手に渡される(38:2-3)、バビロンに降伏しない限りは、生き長らえることはできない(38:17-23)という厳粛なさばきを伝えました。これを聞いた王宮に仕える官吏たちは、エレミヤを苦しみ続けます。
 バビロン軍はエルサレムを再度包囲し、ついに町の一角が崩れました。ゼデキヤと兵士たちはそれを見て夜のうちに逃亡しましたが、ついに捕らえられ、王の子どもたちと貴族たちは殺され、ゼデキヤは目を潰されました。そして、都は焼かれ、城壁は破壊されていきました(紀元前586年)。それと共に、エレミヤは監禁状態から解放されました(39章)。
 バビロンによるエルサレム崩壊というエレミヤの預言通りのことが起こりました。そこで、人々はエレミヤの言葉に聞き従うようになったのでしょうか。エルサレム崩壊後、バビロンの王はゲダリヤ(彼もシャパンの子孫であり〔40:11〕、その親戚にエレミヤを助けたミカヤ〔36:10-11〕がいた)を総督として立てました。ゲダリヤは、バビロンの王に仕えることにより幸福になりなさい、と人々に告げます(40章)。しかし、王家のひとりであるイシマエルはゲダリヤを暗殺します(41章)。その一方で、バビロンによる報復を恐れた民は、エレミヤに主からの預言を求めてきます。エレミヤの言葉を必ず行うという誓願までするのです(42:1-6)。エレミヤは、この地に留まれ、エジプトに逃げるな、そこに行くならば主の怒りが下る、と預言します(42:7-22)。しかし、民は主の言葉を拒絶し、エレミヤを連れてエジプトへ下っていきます(43章)。エジプトに下っていったエレミヤは、そこでも人々への主の厳粛なさばきを預言します(44章)。
 ユダの民は最後までエレミヤを通して語られる主の言葉を聞こうとはしません。エルサレムの崩壊という預言の成就を目の当たりにしても、従おうとはしなかったのです。人はそれほどにうなじのかたい者、どのようなことがあっても「主に従う」とは言えない者でした。その一方で、主に従い続けたエレミヤの書記官、バルクに対しては、主の祝福の言葉が短く記されています(45章)。
 
II. 諸国へのさばきの託宣(46〜51章)
 諸国への主のさばきの託宣が本書の最後にまとめられています。全体は、二大列強であるエジプト(46章)とバビロン(50〜51章)ではさまれています。ペリシテ(47章)、モアブ(48章)、アンモンびと(49:1-6)、エドム(49:7-22)、ダマスコ(49:23-27)、アラブ諸国のケダルとハゾル(49:28-33)、そしてエラム(49:34-39)への主のさばきの宣告がその間に置かれています。
 エジプトへと逃亡していった民の現実(43〜44章)との関わりの中で、エジプトへのさばきが最初に描かれています。カルケミシにおけるバビロンとの戦い(紀元前605年)においてエジプトが敗戦し、バビロンの勢力拡大が決定的になった時に与えられた預言であり(46:2)、その後のエジプトの衰退を予告しています。そして、バビロン王ネブカデネザルこそが世界の覇権を手にする旨が繰り返されています(46:13, 25-26)。それに続いて、諸国へのさばきの裏返しであるイスラエルの回復の約束が記されているのは特記すべきでしょう(46:27-28)。
 主の審判の器であったバビロンも、やがて攻め落とされることが告げられ(50:2-3)、それがイスラエルとユダの回復とも結びつけられています(50:4-5)。さらに、バビロンへのさばきの最後には、エレミヤの書記官であったバルクの兄弟であるセラヤがバビロンに行く時、やがて来るべきバビロンの崩壊についての預言の言葉が彼に託されています。そして、預言が記された巻き物をバビロンの都のほとりのユフラテ川に投げ込むように彼は命じられています(51:59-64)。
 このようにして、エレミヤは自らの国であるユダだけではなく、「万国の預言者」(1:5)として働き、世界のあらゆる国の栄枯盛衰を預言してきたことが明らかでしょう。それとともに、主こそが歴史を司るまことの王であることも繰り返し示されています。
 
III. エルサレムの崩落:エピローグ(52章)
 エレミヤ書の最後には、エルサレム崩落(紀元前586年)の記事が、39章とは異なった視点で描かれています。町の城壁が破られ、逃亡したゼデキヤ王は捕らえられ、町は焼かれ、城壁はうち壊され、神殿の什器はバビロンに移されてしまいました。さらに、二回にわけて数多くの民がバビロンに捕らえ移されました。このように、エレミヤを通して語られた主の言葉は成就しました。
 しかし、本書は厳粛なさばきだけをもって終わってはいません。列王紀下同様(25:27-30)、バビロンに捕らえ移されたユダの王エホヤキンが獄屋から出され、王の食卓で食事をするようになった記事が本書の最後にも記されています。このようにして、エルサレム崩落の預言の成就、それは来るべき回復の預言の希望であることを示唆しつつ、本書は幕を閉じます。