公正と正義に生きる

 「正しい人の指示は公正、悪しき人の指図は虚偽」(12:5[私訳])。律法から始まり、預言者、さらに知恵文学に至るまで、旧約聖書は一貫して社会に公正と正義を求めています。そして、公正と正義は、「正しい人」、つまり「公正と正義に生きる」ことを信条としている人によって造りあげられます。ですから、社会を構成するひとりひとりの人格が問われることなしに、さらには公正と正義が社会に「川のように流れること」を心から喜ぶ人が増えることなしに聖書が求めている姿の社会は存在しないでしょう(「公義を行うことは、正しい者には喜びであるが、悪を行う者には滅びである」[21:15])。
 具体的に「公正な社会」とはどんな社会を言うのでしょうか。人々がどのような人格をもって生きるとき、社会に公正と正義が満ちあふれるのでしょうか。
 
I. 公正と不正
 不正がはびこる社会の特徴のいくつかを箴言から見てみましょう。まず、貧しい者がないがしろにされること。社会に公正と正義をもたらす正しい人は貧しい者、自分の力で自分自身を守る余裕のない人の訴えを必ず心に留め、それに応えていこうと努力しています(「正しい人は貧しい者の訴えをかえりみる、悪しき人はそれを知ろうとはしない」[29:7])。逆に、貧しい人をしえたげる者は、彼らの行っているその不正によって全世界の創造主を侮辱しています(「貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は主をうやまう」[14:31])。なぜこのような表現をするのでしょうか。それは、自らが造られた人間を主は心から愛しておられ、弱いひとりをも大切にしておられるからです。ですから、「公正な社会」は、主が愛しておられるように弱いひとりを愛し、主の愛に基づいて彼らを大切にする社会と言えるでしょう。こ社会正義という観点から見たとき、神は人が「神のかたち」に生きることを望んでおられます。つまり、神が人に接せられるようにわたしたちが隣人に接する時、社会的弱者への神の愛に人が生きる時、公正と正義があふれる社会が形成されていきます。
 それでは、公正が失われるとき、社会には何が起こるでしょうか。権力を持つ者は弱き者の土地を奪い去り、自らの利益を求めます(「古い地境を移してはならない、みなしごの畑を侵してはならない。彼らのあがない主は強くいらせられ、あなたに逆らって彼らの訴えを弁護されるからだ」[23:10-11])。列王紀上21章に書かれているナボテの畑に関する件は、最高権力者である王が、公正と正義を行わず、弱者を陥れた典型的な例でしょう。イスラエルにおいて、土地は「贖い主」である主なる神から与えられたものです。ですから、主との契約にしたがって、一族の内にその土地は継承されていくべきであって、一族以外のものがそれを奪い取ってはいけません。ですから、土地の境界線が勝手に動かされ、正統的継承者以外の何ものかがその土地を略奪することは、主への冒涜であると理解されました。不正を行う者に対して神は報いを備えて臨まれます。ナボテの畑を奪ったアハブとイゼベルに主が下されたのは厳粛なさばきであったことは、良い例でしょう。
 不正がはびこる社会では、偽りのはかりと天秤が用いられるようになります(「正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである」[16:11])。弱き者から必要以上の税を取り立て、余分に得た分で私腹を肥やす事、それは単に不正な行動を行っているだけに止まりません。「すべてのものを公平に裁かれる」主への冒涜です。ですから、主は不正を行う者を憎まれます(「偽りのはかりは主に憎まれ、正しいふんどうは彼に喜ばれる」[11:1])。一方で、公正な社会を主は喜ばれます。
 賄賂が横行する社会も公正とは言い難いものです。贈り物、賄賂は強大な力を持っています。そして、時の権力者の好意を得る道を開きます(「人の贈り物は、その人のために道をひらき、また尊い人の前に彼を導く」[18:16])。大量の賄賂は敵対関係をも解消する力を持っています(「ひそかな贈り物は憤りをなだめる、ふところのまいないは激しい怒りを和らげる」[21:14])。ですから、賄賂を送るほどの財的余裕のある者は、成功裏に事を進めることができるでしょう(「賄賂は贈り主にとって美しい宝石。贈ればどこであろうと成功する」[17:8、新共同訳])。しかし、賄賂は物事が公正に執り行われることを妨げ、結果的には悪しき者による不正の温床となることを忘れてはいけません(「悪しき者は人のふところからまいないを受けて、さばきの道をまげる」[17:23])。
 不正は裁判においてその極みに達します。悪しき者をえこひいきして不正に目をつぶったり、逆に正義に生きている人に対して的を射てない判決を出すならば、社会の不正は裁きの座まで浸透していると考えるべきでしょう(「悪しき者をえこひいきすることは良くない、正しい者をさばいて、悪しき者とすることも良くない」[18:5])。偽りの証人による虚偽の証言がまかり通り、真実を語らない裁判が行われているならば、公正と正義はその社会において死に絶えようとしていると考えるべきです(「真実を語る人は正しい証言をなし、偽りの証人は偽りを言う」[12:17])。
 
II. 公正と正義に生きる
 公正と正義に生きるためにわたしたちはどのような人格へと成長していく必要があるのでしょうか。二つのキーワードから考えてみましょう。
 まず、「正義」。正義に生きる人は単に「正しいこと」を行う人ではありません。規則を厳守する人がいつも正義に生きているとは限りません。むしろ、あわれみに満ちた人、弱き者、さらには家畜の必要までも心遣いをする人のことを「正義に生きている」と呼ぶことができます(「正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は残忍をもって、あわれみとする」[12:10])。また、熟考の人であり、相手に害をもたらさないようにと注意深く言葉を選ぶ人です(「正しい者の心は答えるべきことを考える、悪しき者の口は悪を吐き出す」[15:28])。「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(10:21)とあるように、多くの人々をその言葉によって守り、導き、養い、育てます。彼らは「社会の羊飼い」です。さらに人のものをむさぼらず、むしろひたすら与えて惜しみません(「悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、正しい者は与えて惜しまない」[21:26])。そして、社会の「命の木」となって、祝福と命と平安の実を分け与えます(「正しい者の結ぶ実は命の木である、不法な者は人の命をとる」[11:30])。
 もう一つのキーワードは「忠実・真実・誠実」。人の悪口を言い歩くことなく、公にしてはいけない秘密は誰にも語らず自分の心の奥に収める人が求められています(「悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく」[11:13、新共同訳])。嘘をつかず、偽りの証言をしません(「真実な証人はうそをいわない、偽りの証人はうそをつく」[14:5])。自らの証言によって人の命を救いだし(「まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である」[14:25])、人々の生涯に「いやし」をもたらします(「悪しき使者は災いをもたらすが、忠実な使者はいやしをもたらす」[13:17、私訳])。暑さの盛りの冷たい雪のように、怒りに燃えさかる人の心に涼しい風を送り込むのも忠実な人です(「忠実な使者はこれをつかわす者にとって、刈入れの日に冷やかな雪があるようだ、よくその主人の心を喜ばせる」[25:13])。
 現代社会は不正に満ちており、「不正」がまかり通っています。今こそ「聖書の知恵」に耳を傾け、公正と正義に生き、「世の光、地の塩」としてこの社会で進ませていただきましょう。