国家と王

 「王の継承者と王の統治を補助する人たちの教育に箴言は用いられていた」といわれています。それを裏付けるかのように、箴言には王と国家に関する知恵の言葉が多くあります。
 
I. 国家と治世者
 「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる」(14:34)。ある国がどれほど力を持っているかを判断する基準はなんでしょうか。箴言を見ると、「指導者たちによってその国がどのように統治されているか」が評価の基準であることがわかる。そして、尊敬すべき国(高き国)かそうでないか(恥ずかしき国)は、その国が正義に基づく統治されているか否かを調べればいいのである。
 それでは、正義によって治められる国家が成立するためにはどうしたらいいのでしょうか。国家を適切に導く(「運転する」)指導者がおり、かつその数が十分にあることです(「指導しなければ民は滅びるが、参議が多ければ救われる」[11:14、新共同訳])。箴言の時代、国家の指導者であったのはほとんどが王でした。だから「正しき者」、つまり「正義に基づいて国を治める者」が、王としてその国に君臨することが勧められました。「正しい」王をいだいているなばら、その国の評判は周辺諸国間で上がるだけではなく、その国の民も満足し喜ぶでしょう。そして、その国は堅く立つことができます(「正しい者が権力を得れば民は喜び、悪しき者が治めるとき、民はうめき苦しむ」[29:2])。
 
II. 王として国を治める
 「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である」(25:2)。王として国を治めるための秘訣は何でしょうか。それは創造の神が世界に隠された創造の秩序を探し出し、窮める尽くすことです。ただし創造の秩序を知るのは、知的欲求を満たすことが目的ではありません。創造の秩序に「正義」が示されており、この秩序によって国家を導くときに王は誉を受ける、と箴言が考えているからです。たとえ富を多く蓄積し、素晴らしい建造物を残したとしても、王は誉れを受けません。しかし、正義に満ちた統治によって国民が栄える時、そのような王は素晴らしい統治者であると栄光を受けるのです(「王の栄えは民の多いことにあり、君の滅びは民を失うことにある」[14:28])。残念ながら、このことを理解せず、富と栄えを追い求めた王は数知れません。
 それでは、創造の秩序による統治にはどのような特徴があるのでしょうか。この特徴は、「慈しみとまこと」、つまり「契約に対して忠実であることと信頼におけること」にまとめることができます(「いつくしみと、まこととは王を守る、その位もまた正義によって保たれる」[20:28])。逆に、神や民と結んだ契約を安易に変更していくならば、そのような治世者はその位を追われていくでしょう。
 王が「慈しみとまこと」をもって国を統治したいと願うならば、正義を行おうとはしない者たち(「悪しき者」)を補佐官として任用してはなりません(「銀から、かなくそを除け、そうすれば、銀細工人が器を造る材料となる。王の前から悪しき者を除け、そうすれば、その位は正義によって堅く立つ」[25:4-5])。「銀の原石にあるかなくそ」のような彼らの存在は、国家を造りあげていく王と働きの邪魔であるからです。むしろ、正義によって国家を統治しようと願っている人々を任用するべきです。
 それでは、ある国がよく統治されているかを知るバロメーターは何でしょうか。箴言は二つ挙げています。まず「税金」(「王は公義をもって国を堅くする、しかし、重税を取り立てる者はこれを滅ぼす」[29:4])。当時の税金は王による国家プロジェクト、たとえば建物の建造や戦争の準備などに用いられてきました。ですから、重税をかける王は自らの権威を「もの」によって誇ろうとしたと考えることができます。しかし、そのような王の行動は必ず国、果ては国民を食いつくし、箴言の語る「よき国家」、「国民が喜び満足する国家」を形成することはできません。国がよく統治されているかを知るもう一つのバロメーターは「貧しき者」(「もし王が貧しい者を公平にさばくならば、その位はいつまでも堅く立つ」[29:14])。社会的弱者が軽んじられている国に正義はありません。そして、正義のない国は瞬く間に滅び、その国の王は長く位にとどまることはできません。
  
III. 王の前でどのように行動するか
 これまでは、王がどのように歩むべきかが語られてきました。それでは、王と接する一般の人々はどうすべきなのでしょうか。古代の世界において、王は神からとてつもない権力を委ねられていると考えられてきました。そんな王の前でいかに振る舞うべきなのでしょうか。「天の高さと地の深さと、王たる者の心とは測ることができない」(25:3)とあるように、王の心は測りがたいものです。それを王に仕える人々はどのように察すればいいのでしょうか。
 いくつかの常識的な忠告が箴言には記されています。まず、正義と公正に満ちた言葉、そして正直な言葉で語ること(「正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する」[16:13])。さらに邪悪な下心をもたず(「潔白な心」)、あわれみに満ち、上品な言葉で語ること(「心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる」[22:11])。マナーを守って王との会食を楽しむこと(「治める人と共に座して食事するとき、あなたの前にあるものを、よくわきまえ、あなたがもし食をたしなむ者であるならば、あなたののどに刀をあてよ。そのごちそうをむさぼり食べてはならない、これは人を欺く食物だからである」[23:1-3])、そして晩餐会における謙遜である(「王の前で自ら高ぶってはならない、偉い人の場に立ってはならない。尊い人の前で下にさげられるよりは、「ここに上がれ」といわれるほうがましだ」[25:6-7、ルカ14:7-11を参照せよ])。ここに記されている忠告は、常識的なものでしょう。しかし、これらのことが敢えて記されたのは、王が強大な力をもっていたためです。王の怒りを買ったならば命を失いかねません、しかし、王からあわれみをいただいていたならば、あらゆる問題は解決に導かれるでしょう(「王の怒りはししのほえるようであり、その恵みは草の上におく露のようである」[19:12])。さらに、作物を実らし暮らしを豊かにする雨をもたらす雲と王が対比されています(「王の顔の光には命がある、彼の恵みは春雨をもたらす雲のようだ」[16:15])。これは王のもつ生殺与奪の権の大きさを物語っているでしょう。
 
 確かに王は恐ろしいばかりの権力を持っています。しかし、忘れてはならないのは全世界の本当の王は主なる神だということです。王はいつも神の主権の下にあります(「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」[21:1、新共同訳])。従って、わたしたちは強大な権力を持つ王に媚びる必要はありません。むしろ、本当の主権者である主をおそれ、主に従い、正義をもって民を治める主に目を向けるべきです(「支配者のご機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である」[29:26、新共同訳])。もちろん、国家の指導者たちに従いつつ、また彼らのためにクリスチャンは祈るべきです(ローマ13:1; Iテモテ2:1-3)。しかし、「人に従うよりは神に従うべき」(使徒4:20参照)という原則を忘れてないけません。わたしたちキリスト者は国家の指導者たちに語るべき事をハッキリと語る勇気をもって歩むべきです。