Mother Teresa

 今回で最後にする予定。
 1959年9月3日にマザーテレサがPicachy神父に書いた手紙において、彼女は自分の現在の状況をイエスへの祈りの形で記している。

They say people in hell suffer eternal pain because of the loss of God -- they would go through all that suffering if they had just a little hope of possessing God. -- In my soul I feel just that terrible pain of loss -- of God not wanting me -- of God not being God -- of God not really existing (Jesus, please forgive my blasphemies -- I have been told to write everything). . . . In my heart there is no faith -- no love -- no trust -- there is so much pain -- the pain of longing, the pain of not being wanted. . . .The work holds no joy, no attraction, no zeal. (192-193).

マザーテレサは、みずからの魂に、様々なものを失ったというひどい痛みを感じている。彼女の痛み、それは神が自分を欲していないこと、神が神でないこと、神が実際には存在していないこと。これらの感情が彼女の中で痛み隣っている。さらに、自分の心のうちには、信仰も愛も信頼もなく、むしろ数多くの痛みだけがそこにある。求め続ける痛み、必要とされていないという痛み。そして、彼女は自分の働きに喜びも、魅力も、情熱も感じていない。
 驚くほどに情熱的に、笑みを絶えることなく働く彼女のうちに、このような感情がある。それを信仰の危機と呼ぶ人がいるかもしれない。しかし、この祈りは自分自身の痛みと喪失の告白では終わっていない。次のように続いている。

my own Jesus, do with me as You wish -- as long as You wish, without a single glance at my feelings and pain. I am Your own. -- Imprint on my soul and life the suffering of Your Heart. Don't mind my feelings. -- Don't mind even, my pain. If my separation from You, -- brings other to You and in their love and company You find joy and pleasure -- why Jesus, I am willing with all my heart to suffer all that I suffer -- not only now -- but for all eternity -- if this was possible (194).

渇き切った彼女の感情とは裏腹に、彼女の信仰、その意志は、決してキリストからは離れていない。あなたのみ心のままにしてください、私の感情や痛みなど気にしないで、とマザーテレサは祈っている。私はあなたのもの、だから、あなたの心の苦しみを私の魂と人生に記して下さい、とまで言っている。さらに、マザーテレサ自身がイエスから離れることによって、他の人がイエスの所に来て、そのことによってイエスが喜ばれるなら、このまま苦しむことを私は願う、いま、この時の苦しみだけではなく、永遠の苦しみであっても。
 マザーテレサは信仰を捨ててはいない。彼女の信仰は危機的かもしれないが、それは深い深い信仰である。主が与えることは何も拒絶しない、という強烈な主への全面降伏という信仰の決断の上に立って、彼女がみずから受けている痛みであり苦しみである。イエスへの愛の故に、彼女は苦しみと暗黒という感情を自らのものとして受け止めている。
 しかし、マザーテレサは、この暗やみの状況の意味が全く理解できないままで、その生涯を送ったのではない。1957年にNeuner神父に出合い、彼の霊的導きを通して、彼女は自分の状態に対する明確な認識を得る。

For the first time in this 11 years -- I have come to love the darkness. -- For I believe now that it is a part, a very, very small part of Jesus' darkness & pain on earth. You have taught me to accept it [as] a "spiritual side of 'your work'" as you wrote (214).

 暗やみに苦しんでいた彼女が、「私はこの11年間で始めて、自分の経験してきた暗やみを愛するようになった」と言っている。なぜならば、彼女はNeusner神父を通して、彼女の経験してきた暗やみはイエスが地上で経験している暗やみと痛みの一部(たとえほんのわずかであっても)であるから。マザーテレサの働きの「霊的な一側面」であることを知り、彼女がそれを受け入れてたからである。
 マザーテレサは、暗やみの中にあり、人から必要とされず、忘れ去られていた人々に仕えてきた。彼女が仕えてきた人々の暗やみとは想像に絶するものである。彼女はその人々に仕えることによって、その人たちの暗やみを自らの身に負い続けてきたのである。そして、彼女の仕える人々の暗やみは、イエスの地上における苦難と痛みである。彼女は、その働きを通して、「(苦難の)キリストが私のうちに生きておられる」というみことばに生きたのである。
 Scott McKnightは、彼女の暗やみは「deflection」、つまり感情的にすべてをシャットダウンしてしまった結果である、と理解している(Jesus Creed)。キリストの暗やみに共にあずかる、という考え方はどうも納得いかないようである。ただ、牧師という仕事をしているものとして、苦難と痛みにある人と共に歩み、その人たちの苦しみを覚える時、自分自身の心がつらく、暗くなる時がある。子どもの痛みが自分の痛みとなり、つらくなる。たぶん、マザーテレサほどの暗やみではないだろうが、自分の心を痛み、暗やみの中にいる人に向け続けていく時、それを感情的に共に負うようになったのではないか、と考える。
 理由はどうあれ、この本を読んで考えることは、マザーテレサは霊的な巨人である、ということである。