アモス書

 アモス書は、北王国イスラエルが最後に栄えたヤロブアム二世の時代に、南王国ユダの地テコア(ベツレヘムより南方)出身の預言者アモスイスラエルに向かって語った預言がまとめられています(1:1)。「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される」(1:2、ヨエル3:16参照)とあるように、イスラエルに関する主の裁きの宣告が下されています。
 
I. 諸国、そしてイスラエルへの裁き(1〜2章)
 アモス1:3〜2:16は八つの国への主の裁きの宣告です。それぞれの宣告が「〜の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはそれを取り消さない」の言葉をもってはじめられています(1:3, 6, 9, 11, 13; 2:1, 4, 6)。まず、イスラエル近郊の六つの国(ダマスコのアラムの民、ガザのペリシテ人、ツロ、エドム、アモン人、モアブ)への審判が宣告されています。ダマスコはギルアデ(ヨルダン川東岸北部)での蛮行のため(1:3)、ガザとツロは民を捕らえ移したため(1:6, 9)、エドムは兄弟国への蛮行のため(1:11)、アモンはギルアデでの女性たちへの殺戮のため(1:13)、モアブはエドム王になしたことのため(2:1)、主から刑罰が宣告されています。律法を持たない民であったとしても、その蛮行を主は裁かれています。
 七つ目のユダは「主の教えを捨て」、偶像を慕ったゆえ、裁きの火が都を襲います(2:4-5)。これは律法を持つ民への裁きです。しかし、預言者の本当の標的はイスラエルです。彼らが社会的弱者をしいたげ、女性を性的にもてあそび、他者の質物で遊興しているから、主の審判が宣告されています(2:6-8)。出エジプトで主がなして下さったことを忘れ、主が起こした預言者に預言するなと命じたことについても主は憤っておられます(2:9-12)。主の力強きわざを思い出すことも、警告の声に耳を傾けることもしないイスラエルへ、主は罰を準備しておられます。
 
II. イスラエルへの裁き(3〜6章)
 3:1-5:17では、イスラエルに対する主の訴えとそれに基づく刑罰の宣告が三回繰り返されています(3:1-15; 4:1-13; 5:1-17)。預言者は、イスラエルの民が預言することを止めようとしても、主の訴えと刑罰の宣告を告げなければなりません。主が獅子のようにほえられるとき(1:2)、預言者は主がこれからなすと語られたご計画を民に告げる以外に選択の余地がないからです(3:3-8)。
 さて、主の訴えにはいくつかの要素があります。まず、2章においても述べられたように、イスラエルが主によってエジプトの地から連れ上られた存在であり、あらゆる地上の民族の中から主が特別に選び出した存在であるから、特権を持つイスラエルには重い責任がともなうこと(3:1-2)。次に、都であるサマリヤにおいて暴虐と暴行を重ねこと(3:9-10)。特に貧しい者たちの犠牲の上に自らの贅沢な生活を成り立たせている王宮の女性たちを「バシャンの雌牛ども」と呼び、痛烈な批判をしています(4:1-2)。更に、ベテルとギルガルにおいてなされている礼拝(犠牲とささげもの)を主は受け入れようとはしないこと(4:4-5)。続いて、イスラエルの頑なさです。なぜなら、パンの欠乏、干ばつ、病虫害、疫病と争い、ソドムとゴモラにたとえられるような破壊をもって主が警告を与えても、彼らは主に帰ろうとしなかったからです(4:6-11)。ホセア書ならびにヨエル書において、繰り返されていた「主に立ち返れ」との招きに彼らは応えません。これらのそむきの罪のゆえに刑罰が宣告されます。それは、敵の来襲(3:11)、それによるベテルの祭壇と都の破壊です(3:14-15)。具体的な裁きの現実を通して、世界を統べ治めておられる万軍の神に会うように彼らは備えなければなりません(4:12-13)。果たして、それに耐えることができるのでしょうか。
 このような中で、アモスは来るべき惨劇を覚えて哀歌を歌いつつ(5:1)、主を求めて生きよ、善を求めて生きよ、ベテルやギルガルの祭壇に行くな、と訴えています(5:4-6, 14-15)。「主を求める」という礼拝と「善を求める」という生き方の両面を預言者は求めています。公義と正義が捨て去られている現実の中で(5:7)、厳粛な審判をもって臨まれる創造者がおられる。正しい裁きをせよ、そうすれば残れる者を主が憐れまれるかもしれない、と預言者は告げています(5:8-15)。
 しかし、現実はそうではありません。「ああ、災いだ」(5:16, 18; 6:1)と嘆く主の日が到来します。希望の光の日ではなく、暗やみと災厄の日です(5:20)。大丈夫だ、と偽りの安息にだまされ(6:1)、贅沢な毎日を送っている宮殿に住む人々が、遠くの地へ捕らえ移されていく悲劇の日です(6:4-7)。ここでも、主の審判の宣告の理由は、公義と正義が国の中に川のように流れてはおらず(5:24)、むしろ社会的弱者を殺していく毒のような行いがでなされているからです(6:12)。正しい統治がなされていない限り、どのような祭儀も、ささげものも主は喜ばれません。むしろ、主はそれを憎み退けられます(5:21-23)。
 「ささげものをすれば神は喜ばれる」とは預言者は理解していません。むしろ、公正と正義(またはホセアの言うあわれみと主を知ること)を主は求めておられ、それらが現実となる時、主は犠牲をも喜ばれます。主はまずわたしたちの生き方、弱者への関わり方を見ておられます。
 
III. イスラエルの終わりの日に(7〜9章)
 7:1-8:2にはアモスが見た幻が書かれています。まず、いなごによる飢饉と火のような干ばつが主から宣告されます。しかし、イスラエルが「小さい」という理由で主に迫った預言者の言葉によって、どちらの災いもゆるされています(7:1-6)。しかし、重りなわ(武器の一種)による破壊(7:7-9)および夏の果物(カイツ)による終わり(ケーツ)の到来(8:1-2)はそうではありません。預言者はもはやとりなさず、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」(7:9; 8:2)と主は宣告されます。それは、ベテルの祭司アマツヤが(王の声を代弁)アモスに預言をすることを禁じたからです(7:10-17)。預言を禁じることの問題を指摘した(2:12)のに、この声を聞かず、主の言葉を拒絶したからです。だから「必ず捕らえられていく」という最終宣告がなされました。
 主の最終宣告のあと、イスラエルの罪が再度訴えられ、審判が描かれています(8:3-9:10)。不正と弱者への虐げの罪が訴えられます(8:4-6)。主はこのことを決して忘れない、と宣言しておられます(8:7)。主の日が到来したならば、あらゆる喜びの歌声は消えます(8:3, 10)。ヨエル書同様に宇宙的な崩壊にたとえられる現実が到来します(8:8-9; 9:5-6)。主がイスラエルの祭壇のかたわらに立ち、逃げようとする民を探し出し、裁かれるべき者をひとり残らず剣で殺す審判の様が描かれています(9:1-4)。しかし、主の日は破壊では終わりません。「ヤコブの家を根絶やしにはしない」(9:8)と語られている通り、ダビデの家を回復し、廃虚を復興されます(9:11-12)。そして、主から与えられた地で残りの民はもう一度繁栄を味わうのです(9:13-15)。しかし、この回復を味わうためには、まずイスラエルの罪が明確にされなければなりません。
 イスラエルの罪の告訴とその刑罰の宣告が本書の大部分を占めています。そして、預言者の言葉通り、ヤロブアム王の後、アッスリヤは北王国を破壊し、多くの民を捕らえ移しました。しかし、最後まで主に信頼する「残れる者」に対して、主は繁栄の回復を残しておられることを忘れてはいけません。公義と正義のない国とその民に対しても、主は公正な裁きをなされるのです。