富と貧困

 社会には必ず貧富の格差が存在します。そして、箴言は貧富の格差の現実を否定してはいません。しかし、箴言には「富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれらを造られたのは主である」(22:2)とあります。つまり、両者の存在を認めた上で、同じ神が彼らの造り主であり、王である事を訴えています。それでは、同じ方によって創造された富める者と貧しい者がいる世界に生きているわたしたちは、富と貧困についてどう考えるべきでしょうか。
 
I. 富の獲得と富の力
 「手を動かすことを怠る者は貧しくなり、勤め働く者の手は富を得る」(10:4)。富を得るにはどうしたらいいのでしょうか。それは勤勉に働くことです。逆に、自らの手を動かさずに怠けている者に貧困が訪れます。しかし、怠惰だけが貧困に陥る原因ではありません。快楽と酒と油(祝いの時には頭に油をかける習慣があったので)におぼれてしまったならば、たとえ多くの富をかつて持っていたとしてもそれを保つことはできません。そして、やがて貧困への道を進んでいきます(「快楽を好む者は貧しい人となり、酒と油とを好む者は富むことがない」[21:17])。勤勉によって富を獲得することはできますが、獲得した富を保つためには、それを適切に用いなければなりません。
 自明のことですが、富には力があります。ですから、富んだ者にとって富は堅固な城でしょう(「富める者の宝は、その堅き城であり、貧しい者の乏しきは、その滅びである」[10:15])。富は様々な外敵から富んだ者を守ります。その一方で、貧しい者は自らを守る富という名の砦を持ってはいません。ですから、破壊され尽くした廃墟に住んでいるような状況です。防御する能力を持っていないだけではありません。破壊されている砦を再建する力も持っていません。さらに、貧しい者の状況は悲惨です。その人を愛する者はほとんどおらず、隣人さえも彼を憎む場合があります。その一方で富んだ者には、その富ゆえに多くの友達、味方ができます(「貧しい者はその隣にさえも憎まれる、しかし富める者は多くの友をもつ」[14:20])。貧富の格差がどれほど非情なものであるかを箴言は知っています。そして、持っている者はさらに与えられますが、持っていない者はわずかな所持品さえ取り去られてしまうのです(マタイ25:29参照)。
 現実の世界の中で、富は絶大な力を持っています。しかし、忘れていけないことがあります。富んでいる者の富は、自分で獲得した物ではなく、主なる神が祝福によって与えられたものです(「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない」[10:22])。確かに勤勉によってそれらの富を獲得したかもしれません。しかし、あらゆるものは彼らを祝福される主から出たものです。
 
II. 「賢く富む」ということ
 すでに述べてきたように、富には力があります。そして、人が生きていく上で富は大切です。しかし、単にお金持ちであればいいとは箴言は語っていません。むしろ、「賢く富む」ことと「愚かに富む」ことがあると指摘しています。では、「賢く富む」ために知っておかなければならないことは何でしょうか。
 まず、「人生の幸せを決めるのは貧富だけではない」こと。「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら常に宴会に等しい」(15:15[新共同訳])とあります。たとえ貧しくあっても、朗らかで明るい心をもって人生に取り組んでいるならば、どのような中でも楽しい日々を過ごすことはできます。実際の「宴会」を持つことができなかったとしても、そこにさいわいがあふれるでしょう。次に、うそを言ったり、人を陥れたりすることによって富を獲得することもできますが、それは「しあわせな富み方」ではありません。そのようななかたちで富むのなら貧しい方がましです(「人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる」[19:22])。神と隣人に対して忠実に生きる(「慈しみ」)から本当の幸せは生み出されます。確かに富によってひとのしあわせは測れるかもしれませんが、それはその指標の一つに過ぎません。
 「賢く富む」ためのもう一つの秘訣は、「いかに富を獲得するか」に注意を払うことです。自分の手で働いて、少しづつ得た富は永く保たれますが、あくどい方法で一気に、さらに大量に得た富(「バブル!」)は長持ちしません(「急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる」[13:11])。悪銭は長持ちしないだけではありません、富の不正な獲得方法がいつかは明らかにされ、そのような富を獲得した者は罰せられるでしょう(「忠実な人は多くの祝福を得る、急いで富を得ようとする者は罰を免れない」[28:20])。新聞をにぎわす出来事を見る時、箴言の言葉がいかに現代社会に生きるわたしたちにも意義深いかよくわかるでしょう。
  
III. 富をいかに用いるか
 富んだ者が陥りやすい最大の問題は、貧しい者を食い物にすることです(「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる」[22:7、新共同訳])。貧しき者が勤勉に働き、自らの畑から多くの農作物を生みだしたとしても、公正と正義に欠ける社会ではそれらは彼らのものとはなりません(「貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても、正義が行われなければ奪われる」[13:23、新共同訳])。このように、社会に正義がなければ、貧しい者は貧しいままです。
 しかし、箴言が求めているのはそんな不正に満ちた社会ではありません。「寛大な人は祝福を受ける、自分のパンをさいて弱い人に与えるから」(22:9、新共同訳)とあるように、みずからの富をもって、寛大に、気前よく貧しい者を支える社会です。神は寛大な人を祝福されます。気前よく与えれば、さらに主からの恵みをいただくのです。さらに、富んでいる者は貧しい者の叫びに耳を傾ける事も求められています(「耳を閉じて貧しい者の呼ぶ声を聞かない者は、自分が呼ぶときに、聞かれない」[21:13])。貧しい者の叫び声を聞こうとしない者が助けをだれかに求めたとしても、誰も助けてくれないからです。この勧めの背後には、富んだ者も貧しい者も共に「同じ神に造られた者」という一つの共同体に所属している事実があります。つまり、持てる者は持っていない者を助け、支える責任があります。これが正しい富の用い方であり、富を保つための秘訣です。
 「弱き者を支え助ける共同体」が聖書の語るあるべき社会の姿です。したがって、王がいかに貧しい者を取り扱うかでその王国が堅固なものか否かがわかります(「もし王が貧しい者を公平にさばくならば、その位はいつまでも堅く立つ」[29:14])。なぜならば、「隣人、特に貧しい者を愛する」事抜きに「神を愛する」事はできませんし、目の前にいる人を愛することができないで、目に見えない神を愛することなど不可能だからです(「貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は主をうやまう」[14:31]、1ヨハネ4:19-20参照)。ですから、わたしたちも委ねられた富をもって隣人を愛し、それを通して隣人を愛しておられる創造主を愛していきたいものです。