証しの書き方

 幼なじみの葬儀礼拝の時の慰めのことばで、彼についての短い証しを書いた(その証しはここ)。そのときに、思いっきり意識したのは、一切解説を書かないでおこう、ということだった。ただ、淡々と起こったことをわたしの視点から書き連ねる。それ以外は一切省く、ミニマリストの証しであった。そして、最後の彼のことばとみことばで、すべての思いを短くまとめる、そんな手法を用いた。
 最近の学生の証しを聞くと、あまりにも説明が多すぎたり、証しではなく、説教になっていたりする。たぶん、たくさん説明を加えないと、伝わらない、という認識があるのだろう、と思ったりもする。でも、本当にそうなのだろうか。説明なんかいらない。ミニマリストの、起こったことを淡々と語るだけ。それで、伝わらないのだろうか。
 ミニマリストの慰めのことばであったが、伝わる人にはかなり伝わったようだ。「二人でキャンプで賛美していたこと、思い出して・・・」という人がいたし、「ここはわれらのアンテオケの詩、思い出して、・・・」という方もいた。つまり、起こった出来事から連想する何か、がそれぞれの人の中で語り始める。出来事そのものに、解説がなくても、深い説得力があったりする。
 そんなことを考えると、説教も、もっと説明を減らしたほうがいいのかな、と思ったりもする。説教になると、時に、説明がマキシマリストになりがちなので。やはり、「説教しない説教」を通して、神は人々の心に語りかけるのかも知れない。