箴言について

 箴言について呟いたのがfacebookに行って、そこで起こった会話(とわたしのぼやき)をここで再録します。

今日の大発見。箴言で新改訳が「愚かな者」とあるところを新共同訳は「無知な者」、岩波訳は「愚か者」、フランシスコ会訳は「愚か者」としている。ところが、新改訳が「愚か者」としているところは新共同訳は「愚か者」、岩波訳は「愚者」、フランシスコ会訳は「愚かな者」。この違い、ご存じ?

<牧師1> 違いはわかりません!全訳が愚か者と言いたいのはわかります。

なぜこのように違っているか、考えて下さい。なぜ、翻訳者はあえて違った訳語を用いているのか。つまり、それぞれの日本語の背後にあるヘブル語は異なるわけです。異なるヘブル語に異なる日本語を当てることによって、語の違いを微妙に表そうとしているのです。

<牧師2> 翻訳家はボキャブラリーも豊かで表現力もいるのですね。頭が良い方尊敬します。

う〜ん。というか、聖書の一点、一画を重んじる、というのは、それぐらい真剣に聖書を読む事じゃないのかなあ。それぐらいの真剣さでテキストに向き合う気概がないならば、聖書信仰なんていう錦の御旗を振ることはできないと思うんだよね。結局は、「聖書を語る」のではなくて、「聖書を使って語る」というレベルでしかないのに、「聖書を語っている」という表現を使う。聖書学を学んで思うのは、保守的な人たちって意外に聖書をちゃんと細かく読んでいなくて、むしろリベラルといわれている人たちこそが、細かく見ている、ということ。今回、箴言を見ていて、細かい所まで注目している姿に感動しているわけです。若者よ、もっと聖書を読め。おっさんのぼやきでした。

<牧師1> そうなんですね!語の違いを微妙に表わす意図があったんですね。翻訳される方の苦労を垣間見ました。おもしろいです!

<牧師2> はい先生。聖書を細かい点まで読むようにします。By One of 若者。

こういう会話が起こってました。わたしの聖書に対する情熱のあらわれでしょうかね。