宗教的文書とは

 なんか、文屋先生が考えているうちに、勝手に自分の考えを書いており、申し訳なく感じますが、考えたことをとりあえず文書にしておきます。
 宗教的文書とはなにか、が文屋先生がどうも考えておらえることのようである。そこで、考えておきたいのは「宗教的」という形容詞である。なにをもって「宗教的」とするのか。その定義が実は問題ではないか、と思う。
 とりあえず思いつくのは三つのパターン。まず、「超越者の存在を前提としているもの」。これはかなり広い定義である。旧約聖書の「宗教的」という観点からいうならば、エステル書のように神の名前が一切出ていなくても、明らかに「超越者の存在を前提にしている」文書は宗教的である。二つ目は、「祭儀に関わるもの」。私が勝手に思っているのだが、文屋先生はこのあたりを宗教的と理解しているのではないか。祭儀こそ宗教であり、宗教は祭儀に表される。歴史書や書簡は祭儀とは関わりがほとんどない。五書は祭儀に関わる書である。メギロースと呼ばれる五つの聖文書群(ルツ、コヘレト、エステル、哀歌、雅歌)は祭りに読まれた書なので、ある意味で祭儀に関わる。三つ目は、二つ目の逆で、祭儀などの人間のからだによる宗教行事とは関わりのない、神に対する心の持ちようについてのもの。聖書にはそのような宗教的文書は存在しない(どの文書も「如何に生きるか」という問題が大きく関わっているので)が、日本人の「宗教性」(こころと個人の信仰の問題)からは生まれうる宗教的理解である。
 私が宗教的文書と呼ぶ時、最初の「宗教的」の定義から考えている。だから、書簡や歴史書は宗教的文書である。しかし、聖公会の背景をお持ちの文屋先生ならば、きっと二つ目の定義に立った「宗教的文書」を想定しているのではないだろうか。
 宗教に祭儀は欠かせないと思っている。そういう意味で、文屋先生の定義の正当性は理解できる。それとともに、現代のように「超越者が消えた」時代の文脈に生きる者として、「超越者の存在」を前提にするという「宗教的」という考え方も捨てがたい。もちろん、あれかこれかではない。超越者の存在の前提なしの祭儀は不思議なものだし、超越者の存在を前提にした時、祭儀は必然的に生まれてくるとも感じる。そういう意味で、定義が難しいのが「宗教的文書」の「宗教的」という形容詞である。
 はてさて、文屋先生の問題意識と重なっているか、全く外れているか、それは、先生からのお返事を待つのみです。