きよめ派による聖書の神学的解釈

 ちょっと考えていることで、すこし浮かんだことがあるので、メモ。
 きよめ派の聖書解釈は、「みことばと聖霊による」ものである。そして、その解釈の幅の広さは、改革派系のものとは大きく異なる。改革派系の聖書解釈理解ならば、「そんな解釈はありえない」ことさえも、「みことばと聖霊による」ものとして受け入れてきている。このあたりはどのようにしたらいいのか。
 一つの規準は、古代教会から語られている、信仰の規範と愛の規範の原則。この二つの原則を越えなければ、どのような解釈も認められる、ということ。しかし、これだけでは、あまりにも「知的」側面ばかりが強調されている。何が足らないのか、と考えていた。
 そこに登場するのが、「聖霊による解釈」というものは単なる「リーダーレスポンス」ではないはず。きよめ派による聖書の神学的解釈のリーダーレスポンスを規定する何かがあるはず。そこで、今日、思い浮かんだのが、「聖霊による人格形成」である。つまり、聖霊による解釈が聖霊による解釈であらしめるのは、まさに、解釈者に聖霊による人格形成が現実となっているからである。聖霊による人格形成が行われているという文脈におけるリーダーレスポンスこそ、きよめ派による聖書の神学的解釈ではないのだろうか。
 まだ、メモ程度。背景をもっと考え、学ぶ必要がある。Childsは聖書の「正典的文脈」なるものを強調した。それは、改革派的な発想。しかし、そこには教会の文脈も当然存在する。しかし、正典的文脈と教会的文脈と共に、きよめ派の聖書解釈には、人格形成的文脈が含まれる必要があると思われる。なぜならば、聖霊は人格を建てあげる存在だから。
 う〜ん。まだ、まだ。しかし、一つの方向性が見えてきそう。よく考えたら、説教と説教者の関係は解釈と解釈者の関係と同じことなのかもしれない。