ダニエル書を読む(その3)

 今日は、明日のために、ダニエル書八章の準備。いろいろ読みながら考える。
 テキストは、メディア・ペルシャ帝国と、その後に起こるギリシア帝国。アレキサンダー大王から、四人の将軍、そしてアンティオコス四世の登場、ユダヤにおける宗教迫害がはっきりと描かれている。単なる予告?とも思えるが、どうもそのような働きだけではないように感じる。そのあたりが、黙示文学の難しい所。単に、予告なら、もっと明確に書けばいいだろうし、起こってしまった後には、それほど残すことに意味を感じない。しかし、あえて8章を残しているのには意味があると思う。また、アンティオコス四世という角も、あえて雄やぎの角としか表現していないのも意味があると思う。
 それでは、どのような意味か。それは、「雄やぎの角」は、今後現れる迫害者の典型例(arch-type)として描かれているのではないだろうか。アンティオコス四世だけに終わらず、その後に起こるあらゆる迫害者にもあたえはまりうる。その傲慢さ、その狡猾さ、そして平安だと思っているうちに巻き起こる迫害、そして主による介入。そう考えて読むと(結構、正典的な読みだと思う)、黙示文学は単なる将来の予告に留まらず、主に背く、悪しき統治者を見分け、それを適切に批判する手段となる。ある意味で、帝国に対する批判文学ともなっている。
 そういえば、雄やぎの角の姿は、ヒトラーにもあてはまるだろう。ポピュラリズムから、迫害者になるいろいろな政治家が思う浮かぶ。郵政選挙における小泉ブームなども、知らないうちに迫害に至る可能性の道を開いてしまった悪しき例ではないだろううか。政治を、権力者を適切に批判できる手段としての旧約聖書にも、注目すべきだ。
 政治への皮肉として、ダニエル書を読む必要性があるともう。そういえば、ダニエル書やエステル記など、バビロン帝国、ペルシア帝国を背景とする文学は、何となく帝国の王に対する皮肉が込められているような気がする。どう読んでも、これらの書に出てくる王たちはまぬけすぎる。本当にそうなんだろうし、satireの意味合いもあるのだろう。