痛みを感じる方向に

 「電脳コイル」というアニメーションがある。近未来の日本の町に住む小学六年生のふたりの女の子を主人公にするSFである。電脳メガネなるものを装着すると、普段の町の光景に別の世界が重なり、電脳ペットなる動物や電脳の世界でしか通用できない武器が現れる。「バーチャルリアリティ」というインターネットの世界と現実の世界が、このメガネをつけると重なり合わせて見えるのだ。
 そのアニメの中で、ひとつの疑問が投げかけられる。電脳メガネをかけないと見えない世界は偽物なのか。ありもしない世界だ、気にするな、むしろこの現実の世界だけを考えろ、とある人は語る。もちろん、この現実の世界が偽物で、電脳メガネをかけて見える世界こそ、本物だ、という人もいる。どちらが正しいのか、どちらも間違っているのか。そんな中で、ほんものは、私たちの心の中にある、という人がいる。電脳メガネをかけていても、いなくても、心が痛みを感じるなら、それがほんものだ、と。
 心の痛みは目には見えない。しかし、事実、存在する。だから、私たちは、心の痛みを感じる方向に行こうとはしない。それを忘れ、記憶の彼方に葬ってしまう。それを思い出してしまいそうな所には、決して近寄らない。心の深い所に隠しておく。でも、心の痛みは現実である。何かの拍子に、その痛みは思い出され、その痛みのゆえに、狂い死にそうになる。だから、心の痛みを感じる方向に行こうとはしない。
 電脳コイルの中で、「痛みを感じる方向に光がある」というせりふが出てくる。私たちは、痛みを感じる方向を避けようとするがゆえに、実は、光を避けてしまっている。そして、いつまでも、暗やみにいるし、痛みが癒えることはない。しかし、皮肉ではあるが、痛みを感じる方向に、その痛みを覚えつつ、突き進む時、その痛みを癒す光に出会うことができる。
 「痛みを感じる方向に光がある」ということばを聞いて、わたしたちはどう答えるのだろうか。心の痛みを感じるがゆえに、いつまでも逃げ続けるのだろうか。それとも、痛みを感じる方向に光があるからこそ、勇気を出して、痛みに向き合うのだろうか。