エゼキエル書33〜48章

 エルサレムがバビロン軍に取り囲まれ(24:1-2)、そしてついに打ち破られたとの知らせがエゼキエルの下に届きます(33:21)。これをきっかけに、主に命じられた通り(24:25-27参照)、エゼキエルは翌日から沈黙を解き、語りはじめます(33:22)。裁きの預言を語りはじめた時に、止められたエゼキエルの働き(3:26)が再開されます。このような中で、イスラエルへの裁き(1〜24章)、諸国民への裁きの預言(25〜32章)は、イスラエルの回復の預言(33〜48章)へと舵が切られていきます。
 
I. 回復の預言(33〜39章)
 本書の初め、その裁きの預言が告げられる時にまず「見守る者」として立てられた預言者の働きと責任が記されていたように(3:16-21)、回復の預言が語られる部分の初めでももう一度「見守る者」の働きと責任が述べられています。そして、預言のことばを聞いて、その生き方を変えて公正と正義を行うならばその者は生きるとの約束が告げられています(33:1-20)。預言のことばへの適切な応答がこそが、救いの実現には不可欠です。
 エルサレムの崩壊が確定した時から(33:21-22)回復の預言が始まります。まず、民が罪を犯したがゆえに、土地は荒れ、裁きが到来したこと、さらにエゼキエルこそが主の預言者であることが告げられます(33:23-33)。続いて、エゼキエルは国家の指導者たちへの託宣を語ります(34章)。「牧者」と呼ばれている指導者は群である民を養うことをせず、むしろ自らが肥え太ることのみを求めていたために、主からの裁きのことばを受けています。彼らがその役割を果たさないからこそ、主ご自身が「わたしは、わたしみずからがわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(34:11)と宣言し、さらに主が正しい働きをする王である牧者を立てると約束されています(34:23-24)。ダビデ王家の王が一時途絶えましたが、もう一度、主のしもべであるダビデを起こし、平和の契約を結ぶことが約束されています。
 続いて、エドム(セイル山)の民(35章)とイスラエルの民(イスラエルの山々)(36:1-15)への対照的な預言が記されています。エルサレムとその神殿の崩壊の際にバビロンを支持したエドムへの主の裁きが語られる一方で、イスラエルの来るべき回復が伝えられています。
 主による回復は、イスラエルを汚れからきよめることによって成就します。そこで、このことに関する預言が二つ並べられています(36:16-37:14)。最初の預言(36:16-38)ではイスラエルが行った流血、さらには偶像崇拝が「女の汚れ」と比較され、これらの行為によって主の聖なる名を彼らが汚したので、主はその民を裁き、民を国々の間に散らした、と述べられています。そこで主は「清い水を注いで、すべての汚れから清め」(36:25)、「新しい心」と「新しい霊」を与え、主の定めに歩むことができるようにする(36:26-27)と告げられます。その結果、荒れ地であった国は楽園となり、崩れた町は堅固となります。
 汚れから清める二つ目の主のわざ(37:1-14)は、最高の汚れである死を象徴する枯れた骨に関する幻を通して示されています。かつて主がなされたように(1〜3章、8〜11章)、エゼキエルは「枯れた骨」が満ちている谷に連れて行かれます。しかし、この骨は、エゼキエルの預言のことばと主の霊によって生きる大群衆に変えられます。この幻を通して、汚れていたイスラエル、死んでいた民が主の霊の力によって清められ、命を頂き、回復されることが示されています。死と比較できるような最悪の状況がイスラエルを襲いましたが、主はそこからの回復を約束しておられます。
 二つの木のたとえを通して、二つの王国がひとりの王によって再建されることが告げられた後(37:15-28)、「メセルとトバルの大君であるマゴクの地のゴグ」(38:1)という主に敵対する者が登場し、彼とその軍隊が、諸国から回復されて安らかに住んでいるイスラエルに向かって攻撃をする幻が示されます(38〜39章)。しかし、彼らの攻撃は打ち破られ、主の聖なる御名は二度と汚されることはなく、諸国民は主の栄光と、彼こそが聖なる方であることを悟るに至ります。
 
II. 神殿の回復(40〜48章)
 すべての回復の幻のクライマックスは神殿の回復です。偶像に満ちていた神殿(8章参照)が全く新しくなります。汚れた全地を清め、回復する最後の段階が、エルサレム神殿の再建です。
 この幻は、エゼキエルの捕囚後25年経過した時に、「初めの月の十日」、つまり神殿における大贖罪日に、神に携えられたエゼキエルが非常に高い山(復興されたエルサレム)に連れて行かれた時に見たものです(40:1-4)。エゼキエルの最後の幻です。この幻において、エゼキエルの案内人として、青銅の形のようで、手に麻のなわと測りざおをもっている人が現れ、回復される神殿を示します。40:5-42:20においては、神殿のそれぞれの部分の正確な計測値が記されます。その後、主の栄光が神殿に帰還する幻をエゼキエルは見ます(43:1-12)。東の門から去って行った主の栄光(10:19; 11:23)が、おなじ道、つまり「東の方に面した道」を通って、神殿に帰ってきます。そして、神殿が王の王である方、主のみ位の座であると宣言されます(43:7)。イスラエルの民とその王によってかつてなされた様々な姦淫のわざはもはや過去のこととなるのです。
 続いて、43:13-47:12では、神殿の祭壇や捧げ物に関する設計図が記されています。その中で注目すべき点がいくつかあります。まず、レビびとたちには聖所の仕え人として、神殿を守り、犠牲をほふる働きが与えられること(44:9-14)。その一方で、ザドクの子孫であるレビの祭司たちは、神殿の聖所に入り、主を嗣業として、主に直接仕える務めが与えられていること(44:15-31)。さらに、王ではなく「君たる者」が立てられ、彼が王という称号なしに王としての務めを果たすことです。彼は定期的に主にささげものをささげる責任がありますが、実際にそれらを祭壇にもって行くのは祭司たちです(46:1-18)。最後に、神殿には泉が湧きでて、それが流れでるにつれどんどん深くなり、ついには死海に流れ込み、それを清くし、すべてのものを生かす姿が記されています(47:1-12)。これこそが、命を与える主の臨在の恵みの回復です。
 神殿の回復の幻の最後(47:13-48:35)に記されているのが、嗣業の再分割です。主がかつて先祖たちに誓われたように、イスラエルのそれぞれの部族に土地が与えられます。まず、土地全体の境界が記され(47:15-20)、そして各部族にその土地がわけられます(47:21-48:29)。驚くことに、その一部は寄留の他国人にもわけられます。そして、エルサレムの十二の門が十二の部族の名に対応してつけられ、この都が「主そこにいます」(48:35)と呼ばれる幻(48:30-35)をもって本書は幕を閉じます。主の栄光が留まり、主が住まわれる場所が回復されるのです。
 このように、祭司の家の出であるエゼキエルは、神殿における主の聖なることの回復、という観点からその預言を語っています。主の栄光がわたしたちの間にある、その素晴らしさを覚えつつ、わたしたちも主と共に歩ませていただきましょう。