なぜ知恵の言葉に耳を傾けるべきなのか(箴言4章)

 箴言第4章では「知恵の言葉に耳を傾けよ」との命令が3回繰り返されています(「父の教えを聞き、耳を傾けよ」〔4:1〕、「聞け、わたしの言葉を受け入れよ」〔4:10〕、「わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ〔4:20〕)。「くどい」と思われるばかりのこの繰り返しですが、頻繁に繰り返されるということは「知恵の言葉に耳を傾けること」が重要であることをも意味しています。
 
I. なぜ知恵の言葉に耳を傾けるべきなのか:模範のゆえ(4:1-9)
 なぜ知恵の言葉に耳を傾けなければならないのでしょうか。その理由の一つとして、「それは良い教訓をあなたがたに与える」ことがあげられています(4:2)。なぜ箴言の語る言葉を「良い教訓」と呼ぶことができるのでしょうか。この事は4:3-9に記されています。それは、自分が語っていることがは語り手自らが自分の両親(つまり聞き手の祖父母)から聞いた言葉、そんな先祖代々の教えであるからです。それでは、どのような言葉を祖父母は語ってきたのでしょうか。まず「わたしの語る言葉を通して知恵を獲得せよ」(4:4b-5, 7)。次に「知恵を愛せよ、それはあなたを守る」(4:6)。父がすでに語っているように(「慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保」〔2:11〕)、どのような敵が襲いかかってこようとも、知恵があれば守られます。だから恐れるに足りません。三つ目に「知恵はあなたに誉れを与える」(4:8-9)。知恵は誉れと栄誉であり、麗しい飾り、そして栄えの冠です。実はこのことについても父はすでに語ってきています(1:9; 3:4, 16)。このように、父は、先祖代々の教えを伝えてるに過ぎません。ことさら知恵に関しては「古いものこそいい」と言えるでしょう。多くの世代に語り継がれ、多くの人によって検証されているからです。
 両親が先祖代々の知恵の言葉を自らの子どもに伝えるのはどうしてでしょうか。それは、自分たちが自らの両親にとって大切な子どもであったように(4:3)聞き手が自分たちにとってかけがえのない子どもだからです。大切な人にはよいものを伝えたいのは当然の願いでしょう。
 なお、両親は単に自らの両親の言葉を繰り返しているのではありません。自らを自分の子どもの模範としてさしだしています。「知恵を獲得せよ」と語りながら、その実を自分のものとしていないのなら、その人のことばはむなしいものです。しかし、自分の親の言葉に聞き従った結果、知恵を獲得し、知恵に守られ、尊敬と誉れを受けてきた経験をしているならば、「わたしたちを見れば、知恵のすばらしさがわかるはずだ」と両親は子どもを説得することができるでしょう。
 箴言第4章はわたしたちの家庭や教会における教育にいくつかの指針を与えるのではないでしょうか。まず、教育は「愛に基づく」ものです。大切な人に自分の受けた素晴らしいものを伝えることです。さらに、教育は「模範に基づく」ものです。知恵の言葉が説得力を持つためには語る者が自らの語っていることに生きていなければなりません。「子どもは大人の言うことを聞かない、しかし大人のしていることを真似する」ということわざは真実です。
 
II. なぜ知恵の言葉に耳を傾けるべきか:命を与えるが故 (4:10-19)
 両親の語る知恵の言葉に耳を傾けなければならない理由はもうひとつあります。それは、知恵の言葉に耳を傾けるならば、「長く生きる」ことができるからです(4:10)。さらに「知恵そのものが命である」とさえ言っています(4:13)。知恵と命が密接に結びついてることがわかります。
 では命ある生き方とは具体的にはどんなものでしょうか。それは「人生の旅路においてつまずかない」ことです(4:11-12)。行くべきでない道に迷い込むことなく、変なものに足下をとられてつまずくことなく生きることができればどれほど素敵でしょうか。もちろん、迷うこと、足下を取られることによって学ぶことも多くあります。しかし、必要のない所でつまずいてしまうこともあるのが人の現実です。ですから、知恵の言葉が「人生の道を照らす光」となり(4:18)、つまずきそうなものを照らし出し、迷いそうな分岐点で行くべき道をしめしてくれれば、どれほど幸いでしょうか。
 その一方で「命のない、死に満ちた歩み」とはどんなものでしょうか。親は子どもに「よこしまな者の満ち、悪しき者の道を歩むな、避けよ」(4:14-15)と命じています。それは、悪しき人たちは悪を行ったり人をつまずかせたりしないと休むことができないからであり、不正と暴虐なしでは生きられないからです(4:16-17)。普通の人の感性でいうと、人をつまずかせると夜も眠れなくなり、不正や暴虐をおかしたら死んでしまいたくなると考えるでしょう。しかし、知恵に耳を傾けない、悪しき人たちは、普通の感覚とは全く逆の生き方をしています。そして、そんな「異常」な生き方をしていることにも気づかず、むしろ「暗闇に」いるのです(4:19)。どの道を選ぶべきかわからず、道に何があるかわからず、迷っていても迷っていることさえもわからず、つまずいても何につまずいたかわからず、つまずいたことさえも気がつかない状態に陥っています。こう考えてみると、知恵に欠けた歩みとは「いろいろのものにつまずく歩み」に留まりません。もっと恐ろしい状態、つまり「自分がつまずき、異常であることに気づかない生き方」と言うことができます。そして、知恵の声に耳を傾けるとき、知恵はわたしたちをそのような状態から救い出すのです。
 
III. 全身で知恵の言葉に生きる (4:20-27)
 では「知恵の言葉に耳を傾ける生き方」、先祖から伝えられ、模範となるべき生き方、わたしたちの人生の旅路に明るく光を照らしてくれる生き方とはどんなものでしょうか。一言でまとめるならば、「全身をもって知恵の言葉を生きる」ものと言えるでしょう。
 意識的に知恵の言葉に「耳」を傾ること(4:20)、つまり習慣化からの脱却。そして、知恵をしっかりと自らの「目」で見つめ続け(4:21)、それを理解し、それを忘れないようにすること。更に、まっすぐ前を見る生き方(4:25)。「いのち」という名の道をしっかりと見据え、悪しき者の誘惑からに目をそらさないようにすること。次に、知恵の言葉を「心」にとめることによって行動そのものが変わる生き方も大切です(4:21)。単に心が変わるのではありません。聖書の理解は、「心が変われば、行動が変わる」のです。そしてその知恵が「心」から逃げていかないように、命の泉なる知恵が奪われないように「心」に門番を置く生き方も重要です(4:23)。悪しき者の言葉が侵入しないようにしっかりと守るべきです。さらに「口」からでる言葉に注意を払い、人を慰め、励まし、破れを繕っていく言葉、「まっすぐで、良い言葉」を語ることは知恵に生きることと切り離す事はできません(4:24)。人のことばにはその人の品性があふれているからです。最後に「まっすぐ歩いていく」ことを忘れてはいけません。足下のつまずくものを取り除き、悪いものの誘いにふらふらしない生き方です(4:26-27)。このようにして、耳、目、心、口、足、全身が知恵の言葉を映し輝いて初めて確信をもって「知恵に生きている」と言うことができます。
 知恵の言葉を語る者はわたしたちの最善を望んで、長い歴史に裏打ちされ、愛によって継承され、自らの模範をもって確証される知恵の言葉を伝えてくれています。それは、つまずかずことなく、命の道を歩むように願ってのゆえです。ですから、わたしたちは全身を持ってその知恵の言葉に応えるべきではないでしょうか。全身をもって従い、知恵に生きる、そんな歩みをさせていただきましょう。