空とは無自性である

 大乗仏教における空についての議論、その2。
 
 それでは、「無自性」とはどういう意味であろうか。
 「無自性」とは「実体をもたない」という意味である。ここで言う実体とは次のように定義される。
「実体とは、みずからの存在のために、いかなるほかのものをも必要としない、自立的な存在であります。ですから実体が原因・条件から生じることはありえません。実体はあくまで自己同一性を保つ恒常な存在ですから、決して変化いたしません」(梶山104)。
 つまり、実体とは変わることなく、消滅することない存在を指しています。ですから、もしあるものが他のものとの相互依存の関係、つまり「縁起」によって結び付いているならば、それは実体であると呼ぶことはできない。縁起によってなんらかのものと結び付いている限り、その事物は実体をもたない、無自性である。つまり、縁起と無自性とは同義である。また、ブッダが唱えた「あらゆるものは無常である」は、「すべてのものが移り変わり、消滅してしまうこと」(梶山13)を意味している。それは、「すべてのなかに永遠に自己同一性を保ち続ける本質とか、実体というものがない」(同上)からである。したがって、ブッダの教えに忠実であるならば、すべてのものは実体をもたないという無自性を唱えるべきである。
 それではなぜ龍樹は無自性という概念をあえて唱えたのであろうか。それは、有部が実体が存在すると主張していたからである。人間が意識したり認識したりするあらゆるものは実体を持ち、無存在を表す涅槃や虚空さえも実体をもつ存在と有部は考えた(梶山41-42)。もちろん、あらゆる存在は過去、現在、未来、という時間の移り変わりの中で変化していくために実体足りえないと考えられる。しかし、有部は現在とはある実体(たとえば火)がある作用と結合して見えるようになった状態を指し、過去と未来は作用と結合しないで潜んでいる状態を指すと考えた。つまり、実体そのものは恒常であるが、それを認識する段階において無常となると主張した(梶山45-46)。
 しかし、龍樹はことばを信頼していなかった。ことばであらわされることがすべて存在するとは限らないと考えた。たとえば、「実体」とは「実体のないもの」の否定としてことばの上で存在するだけであるから、実体ということばがあるからといって、それが存在することを想定する必要がないと訴えた(梶山111)。