空とは縁起なり

 今日、空についての文章を書く。とりあえずアップ。ただし、まだまだ手を加えるべき点はあるし、充分に定義されていない部分も多い。第一校ということで。
 
 空とは一体何を意味するのだろうか。
 空は「無」や「虚無」を意味しない。つまり、空を主張することは、一切を否定し、あらゆるものの虚無を説くわけではない(中村231)。むしろ、空は縁起であり、空とは無自性である(中村234、237)。ここで「縁起」と「無自性」とはどのようなことを指すのかを説明しよう。
 「縁起」の根本思想は、「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅するとき、かれが滅する」(中村175)で表現できる。仏教の中には様々な思想があるが、どの思想における縁起も、この定義と一致している。
 しかし、この定義が具体的に何を指しているかとなると、意見が分かれる。龍樹と対立していた有部(小乗仏教の一派)は、この句を「時間的生起の関係を意味するもの」と考えていた(中村177)。つまり、過去や現在を原因として、未来がその結果として現れる様子である。
 しかし、龍樹は縁起を有部よりもより広義に理解し、縁起を相互依存(または相依性)と主張した(中村182)。
 このことを中論のなかのことばから考えてみよう。「浄に依存しないでは不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である」(23:10)。「不浄に依存しないでは浄は存在しない。それ(浄)に縁って不浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない」(23:11)。浄という概念も、不浄という概念もそれぞれは独立したものである。そして、浄と不浄は混同されない。しかし、これら二つは互いに無関係ではない。ものごとのありかたとして、浄が存在するとき、必然的に浄の否定である不浄は存在する。したがって、浄と不浄の間には縁起がある。相互に依存しているからである(中村186-7)。
 また、中観派の書には父と子の関係にも相互依存を見ている。時間的に見て、また自然から見て、父があってはじめて子が生まれる。したがって、確かにここに原因(父)と結果(子)という関係が見られる。しかし、父は、子があってはじめて父となるのであって、子がなければ父ではありえない。つまり父は子に依存している。このようにして、父と子は単なる因果関係で結ばれているのではなく、相互依存にある(中村187)。
 このことを中村は次のようにまとめている。
「『中論』によると、一切のものの関係は決して各自独存孤立ではなくて相依相資であるというのである。一切の事物は相互に限定し合う無限の相関関係をなして成立しているのであり、何ら他のものとは無関係な独立固体の実体を認めることはできないという主張の下に、相依性の意味の縁起を説いたのである。」(中村203)。
 このように一切の事物が相互依存の関係を持っているから、「一切の法は縁起している」と言われている。そして、縁起と空とは同義であるから、一切の法は空であるという主張が成立するのだ。