ゆるすこと

 教会の祈祷会で「ゆるすこと」について三回話をしている。ネタ本は

Free of Charge: Giving and Forgiving in a Culture Stripped of Grace

Free of Charge: Giving and Forgiving in a Culture Stripped of Grace

 先週の水曜日には「神はゆるす神である」との話をし、明日は「わたしたちはゆるすべきである」。次回の「わたしたちはゆるすことができる」という内容を考えるために、上記の本の第6章を読んでいた。「ゆるしているのはもやはわたしではない、キリストがわたしのうちでゆるしているのである」とのガラテヤ2:20のパラフレーズに思いを馳せた。そして、神がゆるされる人を、なぜあなたはゆるせないのか、とのチャレンジを感じた。
 光市の母子殺人事件についての最高裁判決が今日出た。高栽に差し戻しになったようである。被害者の夫の姿を見るたびに、ゆるすことの難しさを覚えると共に、ゆるさない時、その憤りがその人をどれだけ傷つけていくか、ということを覚える。クリスチャンとして、どのような状況にあったとしても、「ゆるす」以外に選択肢はない。そのことを覚える。