神をおそれる(伝道の書5:1-7)

 これまでコヘレトは社会における様々な経済活動についての意見を述べてきました。しかし、5:1-7では目をエルサレムの神殿に置ける礼拝に向けています。全権者である神と直接に対峙する神殿において、人はどの姿勢で神に向かい合えばいいのでしょうか。

I. 神に聞き従いなさい
 神殿においては様々なささげものが神にささげられていました。そのような礼拝の行為を行う時、コヘレトは「その足を慎む」ことを勧めています(5:1)。これは「足下に注意しなさい」という命令ではなく、「自らの行動一つ一つを慎重に行いなさい」という命令です。具体的にはどのようにすれば慎重な行動なのでしょうか。「近寄って聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる」と続いています。「聞く」とは単に「神の声に耳を傾ける」という意味ではありません。むしろ、神に聞き従う事です。そして、知者ならば、犠牲をささげることばかりに心を奪われるのではなく、まず神に従うことを求めよ、と勧めているのです。神に従うことを横において、ただ犠牲をささげているならば、神を尊重しているつもりで実は「悪を行っている」ことになるからです。
 イスラエル初代の王であったサウルは主の言葉に聞き従わず、「滅ぼしつくせ」と命じられた家畜のよいものを自分たちのものとしてしまいました。その時、サムエルはコヘレトのこのことばと同じことを語っています。「見よ、従うことは犠牲にまさり、聞く事は雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。知恵ある者は何よりもまず主に従うことに心をつくすはずです。
 神に従うことの重要性は、神殿での誓願においても現れています(5:3-4)。「ある祈りが聞かれたらある行動を行います」のような誓願をしたならば、祈りが聞かれた時、速やかにその誓願を果たすようにコヘレトは命じています。そして、それを果たすことができないのなら、誓いをするな、と釘を刺しています。誓願を忠実に果たさない人の事は「愚かな者」です。知者であるならば、神に喜ばれる行動、すなわち誓願が聞かれたら、それをすぐに実行に移すでしょう。
 このように、神に従うことこそ知恵ある者の行動であるとコヘレトは訴えています。神を軽率に扱う者は自らが愚者であることをさらすだけです。ほんとうの知恵はわたしたちに神に従うことを教えます。

II. 神の前では言葉少なくありなさい
 神殿における行動について、コヘレトは「神の前で軽々しく口を開き、またことばを出そうと、心にあせってするな」(5:2)とも戒めています。祈りのことばにおいて、また誓願のことばにおいて軽々しく神の前に祈ってはいけません。なぜ、神の前ではことば少なくなければいけないのでしょうか。それは「愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる」(5:3)からです。神の前において不用意に言葉が多いことは、愚かさの現れであり、結果として、主に従わない行動を生み出します。
 ですから、5:6において、「あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない」と諭されています。ここで言う「使者」とは神殿に仕えている祭司のことです。軽々しくことばを発することによって、誓ったり、祈ったりすべきでないことまで語ってしまうことがあります。そして、言葉を発した後、「あれは間違っていました、なかったことにして下さい」と神の前に語っても遅いのです。いわゆる「口が滑った」という事は神の前には不適切です。神の前で語ることは厳粛なものであることを覚えるべきです。
 なぜ、ここまで言葉において注意深くあるようにコヘレトは教えているのでしょうか。それは軽々しく神の前で誓う人々の声を神が聞き、それに対して怒り、その結果、その人の手のわざ、つまりその人のなしてきたことを滅ぼしてはいけないからです(5:6)。神は天におられます(5:2)。天におられるからこそ、地においてわたしたちが語ることをすべてを聞き、知っておられるのです。そして、時にわたしたちの言葉にふさわしい対応を神はなされます。「神は無力である、恐れるに足らない」と誤解してはいけません。知恵ある者は神が全権者であることを悟り知っています。

III. 全能者を恐れる
 コヘレトは神の前で愚か者のような行動をしてはいけない、神の前では言葉少なくありなさい、と神の前での注意深い行動を勧めています。たとえ、神が不正を見逃されている(4:1-3)としても、神を勘定に入れて行動せよ、と勧めています。そして、これらの命令をまとめて、「あなたは神を恐れよ」(5:6)と諭しています。なぜこのような命令でまとめているのでしょうか。それはコヘレトが語る聖書の神は単に天におられて地上での事をすべて知っておられるだけではなく、天においてすべてを治めておられる全権者だからです。神を怒らせ、神の厳粛な裁きが執行されたなら、人はその前には全く無力です。3:14ですでに述べられているように、人は神のなさる事に対して口答えすることも、それを変えることもできません。被造物である人は、全権者である神の前では全く無力です。知恵ある者はこの事実をしっかり認識すべきです。そして、その上で行動を起こすべきです。ですから、「神を恐れる」とは「神は恐ろしい方である、と信じて、おびえながら生きる」ことではありません。自分たちが全権者である神の前には無力であることを認めて、その限界の中で生きることを意味しています。
 聖書が語る神はわたしたちを愛し、わたしたちをゆるし、わたしたちにめぐみを与えて下さる神です。ですから、毎日「神を怒らせる何かをしたのではないか」とおびえながら生活する必要はありません。だからといって神を重んじることなく、神との関わりを軽視する歩みも適切ではありません。わたしたちの信じている神は全権者であり、人は神の前では全く無力であることをしっかりと認識しつつ、知恵ある者として、神の前を畏敬の念をもって歩ませていただきましょう。