「物語か体感」か、それとも「物語と体感」か

 昨日書いた宮台氏の件、もう少し考えて見た。
 彼の議論の問題点は、大局的に見ると、「物語か体感か」とニ律相反的に考えている点である。体感は物語から生まれるし、体感から物語が生まれうる(これは昨日述べた)。ここ20年ほどで起こった社会の変化は、「物語から体感へ」の変化ではなく、「体感が物語から生まれる時代」から「体感から物語が生まれる時代」への変化ではないだろうか。つまり、「一生懸命がんばれば、きっと楽になる(物語)、だから今はつらいけどがんばろう(体感)」という時代が終わり、「今楽しければいい(体感)、だから好きなことをしていきよう(物語)」となって来たのではないか。
 この時代の変遷がもし本当であると仮定すると、教会の衰退の原因も何となくわかる。かつては物語から体感を生みだすフレイムワークで生きていた人々にとって、彼らが抱えていた物語の崩壊から、新しい物語の抱擁へと移ることは自然であった。そして、体感がちょっとくらい悪くても、物語が変化したのだから、いいのだ、と受け止めることができるようになっていたのだ。だから、教会の居心地が少しくらい悪くても、「天国へ行く」の望みに生きているので、教会に行き続け、居心地が悪いことを変えようとはしなかった。ところが、時代が変わり、人々は体感から物事をとらえるようになってきた。そうすると、教会の居心地が悪いので(教会のみならず宗教全般でしょう)、物語のとりかえに至る以前に教会とは関わりを持たなくなってきた。ところが、いい体感を与えうる教会(たとえば、音楽における体感、交わりにおける体感、礼拝堂の雰囲気における体感)には人々は行くようになっている。したがって、教会の二極化が起こりつつあるわけだ(メビックなどでがんばっているところは人が来るけど、今まで通りの教会には人が来なくなっている)。
 それでは、どうすればいいのか。教会は「体感から物語へ」の流れを十分に心にとめて、伝道を行うべきである。つまり、入り口は「今どう感じるか」であり、そこをしっかりと整えつつ、物語の変化へと人を導いていく。昔も、人々は体感を重んじていた。しかし、現代はそれ以上に体感の善し悪しで全てを判断する。
 このように考えると、私自身が「天国に行く」ということよりもむしろ「生き生きと生きる」という点に福音のポイントを置きつつあるのは、時代に敏感に感じた適切な動きなのだろう。