いやしの信仰

 一つ上の幼なじみの牧師が召されて、二週間ばかりが過ぎる。その間、いろいろと彼の事を考えている。
 ずっと考えていたのが、彼のいやしの信仰であった。すい臓ガンの末期となり、腹水がたまる一方で、どんどんやせ細っていった中で、最後の最後まで、かれはいやしの信仰に立っていた。そして、自身の妻に対しても、「直って、一緒に伝道に行くぞ」と言っていた。でも、彼のやせこけている姿を見ている者は(わたしも含めて)、もうあとどれくらいだろうか、と心配していた。「いやしの信仰はよくわかる。でも、来るべき死を受け入れて、その準備をしたらどうなのか」とわたしは正直、思っていた。だから、最後に彼のところに行った、四月の最後の日曜日、わたしはある意味で困惑しつつ、話をし、祈り、帰ってきた。
 彼の上に起こった神の恵み、神のいやしはいろいろな形で語られている。診断されたとき、寿命は半年である、と言われたのに、一年半も生きながらえたこと。顔色が土色になったのに、その後、一年以上も生きながらえたこと。彼の生きながらえることができた期間を考えると、たしかにそれは神の奇跡、神のいやしだろう。でも、それでも、納得できなかった。
 昨日、今日の早天の準備をしているときのこと。聖書はマタイ8章であった。7章の終わりから、メシアであるイエスの権威についての物語が続いている箇所。そして、ローマの百人隊長の信仰が語られていた。それを読みながら、ここでの「いやしの信仰」とは、「癒されることを信じる信仰」ではない。「神の国をもたらすイエスには、病を癒す権威がある」という信仰である。すべての被造物に対する権威をもっているという信仰である。そのことを覚えたとき、死の直前まで持つことのできるいやしの信仰、来るべき死が遠くないと思いつつ、しかし立ち続けることができるいやしの信仰がここにある、ということを感じた。そう、イエスは「天と地における一切の権威を与えられた」王である。この方がいやしを命じたなら、どのような病をも癒しうる権威を持つ。そんな信仰がある。そして、そのような信仰に立っている限り、明日、自分のいのちがなくなるかも知れないような状況であったとしても、いやしの信仰に堅く立ちうる。
 理屈で収めてしまう気はない。でも、なんとなく、いやしの信仰の片鱗を自分なりにわかってきたのかも知れない、という気がした。それでも、彼がわたしに残してくれた宿題は、まだまだ続くだろう。