ケープタウン決意表明(13)

II B. 分断され、損なわれた世界にあって、キリストの平和を築き上げる
 
1. キリストがもたらした平和
 
 ケープタウン決意表明の中心にあるみことばは、
 

神はキリストによって世を御自分と和解させ(2コリント5:19)

 
です。しかし、キリストによる神との和解は、必然的にお互いとの和解へとわたしたちを導きます。なぜならば、
 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)

 
であるからです。そして、特に、聖書の文脈においては、ユダヤ人の観点からすると、最も大きな分断はユダヤ人と異邦人の間に存在しました。しかし、この分断は、キリストによって取り払われ、そこに平和が到来しました。
 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(2:14−16)

 
そして、異邦人とユダヤ人が、キリスト・イエスにおいて、ともに同じ約束にあずかるものとなるのです。
 

すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。(3:6)

 
ですから、そのことが命令されています。
 

平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(4:3)

 
 このように異邦人とユダヤ人の一致が勧められていますが、それは単に起こるべきことにとどまらず、実は全被造物が一つのされる、その出来事にひな型なのです。
 

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(1:10)

 
ですから、アブラハムに語られた福音は、被造物の完成のために神がなされた大きなわざへと世界を動かすような力があるのです。
 

聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。(ガラテヤ3:8)

 
 キリストにある和解は、二つのことをわたしに考えさせます。
 まず、ユダヤ人伝道についての問題です。メシアであるイエスを通して神との和解が実現したと言うことは、パウロが繰り返して宣言しているように、ユダヤ人も「十字架においてのみ、そして十字架によってのみ」神に近づくことができます。
 

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマ10:13−14)

 
ですから、ユダヤ民族の中で主を証しする働きをするメシアニック・ジューを受け入れ、励まし、彼らのために祈る事は大切です。
 もう一つは和解と正義の問題です。人々の間の真実で継続的な和解のためには、正義の確立が必要です。過去と現在の罪を認めること、神の目で悔い改めること、傷つけられた人々に対して自らの罪を告白し、赦しを求めること、そして与えられた赦しを受け取ることが必要となります。また、暴力や抑圧によって害を受けた人々への正義と回復の実現を求めることも必要です。教会は、和解の実現の為に、その務めに加わり、さらにそのための闘いに献身的な努力が求められます。教会は「平和をつくりだす者」となる継続的な努力が必要です。
 
2. 民族紛争におけるキリストの平和
 
 キリストがもたらす平和の切なる実現が求められる今日的な領域の一つは民族紛争です。
 この世界には多種多様の民族が存在します。その多様性は、決して堕落の結果ではなく、創造における神の賜物であり、計画です。
 

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。(使徒17:26)

 
従って、民族の多様性はそのままのこされたままで、ひとつの神の民とされる日の到来を私たちは待ち望んでいるのです。
 しかし、民族的な多様性を認めず、また、自分が神から与えられている「民族」というアイデンティティを軽視してきたのも事実である。それと同時に、自らの民族に対する忠誠心が罪によって損なわれおり、誤用されてきたのも事実である。このことを覚える時に、「あがなわれた者」というアイデンティティが何よりも重要視するとともに、そのもとにある限りにおいて、民族というアイデンティティを尊重することを忘れてはならない。日本人としてのアイデンティティを重んじすぎて、キリストの福音に反する行動をすることしてはならない。そして、キリスト者だからといって、日本人であるということを捨ててはならない。
 さて、民族の紛争の歴史を見る時に、キリスト者がそのような出来事に大きく関与してきた現実を見る。また、大部分の教会は民族の紛争に対して沈黙してきた。人種差別、奴隷制度、ユダヤ人逆去る、アパルトヘイト民族浄化、教派間暴力、パレスチナ人の苦難、カースト制度、部族の集団虐殺など。たとえば、韓日併合時に神社崇拝を勧めた日本の教会、アパルトヘイトを推進したオランダ系改革派教会(その指導者に名を釣られていたのは日本でもよく読まれていたアンドリュー・マーレー)、1994年にルワンダで起こったフツ族によるツチ族の殺害において、国民の大多数を占めたクリスチャン(カトリックプロテスタント)がまさにこの殺害の片棒を担いだ事実を忘れてはいけません。このような行動が平和の福音の証しを著しく骨抜きにしてしまったのである。だから、クリスチャンがそのような暴力、不正、抑圧に参画しているところで、嘆きと悔い改めを呼びかけるべきです。沈黙、無関心、中立主義、神学による正当化は悔い改められるべきです。そのためにも、福音が置かれている文脈に深く根ざし、不正の根底にある世界観と制度に異議を唱え、変革するために働く必要があります。キリストの命令に従って歩む弟子の誕生なしに変革は進みません。
 そのためにすべきこととして、(1)福音のもつ和解の力を深く理解する、十字架においてイエスは敵意を破壊したという神学をも育てること。(2)和解のライフスタイルをもつ(赦しと不正への異議申し立て、和解のために行動し、相手方へのもてなしを行う、暴力という状況の中で、苦しみと死をもいとわない、長期的ないやしに取り組み、教会が癒しの場を提供する)。(3)キリストの十字架と復活の勝利においてのみ、権威を持って、紛争の原因となっている悪に対峙することができることを覚えて、希望の灯となり、希望の担い手となること。
 
3. 貧しく抑圧された人々のためのキリストの平和
 
 信仰告白(パート1)の7−Cにおいて、私たちが愛する「神の世界」には、ここで言われている「抑圧された人々と貧しい人々」が含まれています。ですから、信仰告白に則って、私たちは具体的な行動を起こすように招かれています。
 
奴隷制度と人身売買
 200年前、イギリスにおいてウィリアム・ウィルバーフォースが奴隷貿易を廃止するために尽力しました。そして、1807年に奴隷貿易が禁止されました。そして、彼が健康を害して庶民院を退いた後は、この働きはトーマス・ファウエル・バクストン(B・F・バクストンの祖父)に継承されました。その後、奴隷制度の廃止はアメリカ合衆国へと広がっていきました。しかし、残念なことに、現在でも数多くの人が奴隷とされています(2,700万人と推定される)。インドで、特にカースト制による最下層ダリットの抑圧は現実です。そして、残念なことに教会も自身の内側に不平等と差別を持ってしまっています。さらに、特に女性と子どもが世界中のあちこちで人身売買されており、性産業の奴隷、強制労働、徴兵という形で虐待されているのです。
 この現実を覚える時、人身売買と奴隷という悪と戦うことを求められています。それは、「捕らわれている人に解放を」(ルカ4:18)というイエスの働きの警鐘であり、解放を求める人々の声に応えることであり、このような制度を構造的に支えている社会的、経済的、政治的要因に取り組むことでもあります。
 
貧困
 貧困も世界の現実です。そして、神は貧しく、必要を抱えている人の側に立っておられます。ですから、「制度的な経済的正義」が行われるように働くと共に、個人的には「思いやりと尊敬と気前の良さ」に生きる必要があります。それは、初代教会がしてきたことです。
 

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒4:34−35)

 
また、パウロが異邦人によってなされた教会において一生懸命になしてきた働きでもあります。
 

また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(ガラテヤ2:9−10)

 
 そのために、具体的にするべきことはなんでしょうか。国連では「ミレニアム開発目標」を定め、そこでは八つの目標が示されています(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs/about.html)。そこでは、極度の貧困と飢餓の撲滅のみならず、それと並行して、初等教育の普及、女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善、HIVなどの疾病の蔓延防止、環境の持続可能性、開発のためのパートナーシップがあげられています。また、世界の教会はミカ・ネットワーク(http://www.micahnetwork.org/)を立ち上げ、同様の目標に取り組んでいます(日本からの参加団体はなし)。このような働きに教会が参加することも大切ではないでしょうか。それとともに、特に日本の場合、いきすぎた富と貪欲を問いただすこと、消費主義という偶像崇拝に異議を唱え、富ではなく、神に仕える者として進むべきです(「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」[マタイ6:24])。止める我々に求められている悔い改めをしっかりと認識する必要があります。
 
4. 障がいのある人々のためのキリストの平和
 
 日本においても障がい者は様々な困難を抱えておられる。しかし、それ以上に世界に住む6億人を上回ると推定される障がい者過半数は、後発開発途上国に住み、最も貧しいグループに属しています。身体的もしくは精神的な機能障害に加えて、社会的差別、不公平を味わっている現実を忘れてはなりません。それゆえに、障がいのある人々に仕えるとは、医療、社会的対策のみならず、阻害の廃止と平等のために戦うことを含んでいます。そして、お互いの間に友情、尊敬、愛、正義が生まれることこそ、教会が進むべき道です。
 人間的な観点から見るときに、障がいという固定観念に私たちは冒され続けます。むしろ、「人間的な観点から人を見ることをしない」(2コリント5:16)という視点に立ち、皆が神から賜物を与えられていることに気がついていくべきです。障がいのある人々に仕えるだけではなく、彼らが与える働きを受け取ることも大切なのです。そして、障がいのある人々もそうでない人同様に宣教への召しがある事実を教会は受けとめるべきです。
 残念ながら、障がいを「個人的な罪」「信仰の欠如」「願いの欠如」と考える人々がいる。しかし、これは間違っています。イエスご自身が次のように語っておられるからです。
 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:1−3)

 
このことを心に留めましょう。そして、障がいという障壁で戦っている方々に、罪の意識とかなわない望みという重荷を課してはなりません。むしろ、教会こそが、障がいのある人々が受け入れられ、同じ主の前に立つ者として等しくあることが感じられる場となるように祈り求める必要があります。そして、障がいのある人々の必要を擁護していく務めを教会は負い続けます。
 
5. 苦しんでいる被造物のためのキリストの平和
 
 信仰告白(パート1)の7−Aにおいて、私たちは神の被造物であるこの世界を愛することが告白されています。従って、被造物を愛する具体的な行動が求められています。
 人は神のかたちに造られ、それゆえに地を治める使命が神から与えられていました。ですから、神のよい被造物が与えてくれるその豊かな富を、自分たちの好きなように用いるのではなく、よき管理者として用いなければなりません。そして、それはすべての被造物の所有者である神をおそれつつ、行使するする必要があります。さらに、「全被造物にとっての創造者、所有者、日々支えて下さる方、あがない主、相続人」である主イエス・キリストのために、この業を行います。
 しかし、現実はどうでしょうか。様々な生物が消えていき、地球資源が乱用され、破壊されています。理由の如何に関わらず、確かに気候は変動しています。気候変動は、私たちの住む日本においてもいろいろな影響を及ぼしていますが、それが極端な形で影響を及ぼすのは、貧しい諸国です。ですから、富む地域に住む私たちは、大きな影響を受ける人々と同等の切迫感をもって取り組む必要があります。
 そのために、破壊と汚染の原因が、私たちの消費主義ライフスタイルであることを覚え、それを放棄すること、政府が政治的な都合よりも道徳的債務を優先させるように働きかけること、そして地球資源の適切な使用に取り組み、環境保護や支援活動に従事しているクリスチャンの働きが、宣教的な召命であることを認めることが大切です。被造物保護のために働くこと、それもまさにキリストからの召命、宣教的な召命なのです。そして、日本においては、福島第一原発事故後の地域が放射能によって汚染された現実を踏まえつつ、この問題への対応についても、宣教的な召しであるとの認識から考えるべきです。