派遣

 今度、伝道講座で話をします(5月末と6月末)。その要旨を書け、と仰せつかったので、書きました。たぶん、当日までにいろいろと変化はありますが、とりあえず載せます。ご意見があれば、どうぞ。
 
教会のわざとしての伝道:派遣

エスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(ヨハネによる福音書20:21)

 
I. 礼拝と教会
 礼拝において、主の日にキリスト者たちは神によって集められ(主の招き)、神に礼拝をささげ、神によって遣わされていく(派遣)。礼拝の順序のこれらの内容は、礼拝を行う礼拝堂にわたしたちが集められ、それぞれの場所に祝福されて遣わされていくということを表していると共に、教会とはどのような存在であるかをあざやかに映している。神の民である教会は、神によって招かれ、集められ、神によって祝福されて世界に遣わされているからだ。
 「教会のわざとしての伝道:派遣」というテーマは、礼拝における派遣を手がかりにしつつ、主によって世界に派遣される教会のわざについて熟考することを求めている。しかし、派遣される教会のわざを考える前に、まず、教会を派遣する神ご自身のわざについて知っておく必要がある。なぜならば、伝道を含む宣教はそのものは、まず第一に神のわざであるからだ。
 
II. 神のわざとしての宣教
 ケープタウン決意表明は宣教について次のように定義している。「神の宣教の業は神の愛から流れ出る。神の民の宣教の業は、神と神が愛するすべてのものに対する私たちの愛から流れ出る。世界宣教とは、私たちに向かって、また私たちを通して、神の愛が流れ出ることである」(『ケープタウン決意表明』日本ローザンヌ委員会訳、いのちのことば社、2012年、13頁)。1ヨハネ4:19にあるように、教会の宣教という愛のわざはあくまでも世界を愛する神の愛によってはじまり、この神の愛が流れ出ていくものだからである。
 神は人間を含む全被造物を愛するその愛のゆえに、アブラハムを選び、イスラエルを通して世界に関わってこられた。そして、ついに御子イエスを遣わされ(ヨハネ20:21)、その誕生、生涯、十字架、復活、昇天によってこの世界を愛する愛のわざ、宣教のわざを成就された。ここで特に注意しておきたいのはイエスの昇天である。昇天とは、単に「地から去り、天に上り、再臨するときまでそこで待っておられる」ことを表しているのではない。「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。」(エペソ1:20−21)とあるように、キリストご自身が今も生きて、すべてを、地の歴史と被造物を治めておられることを意味する(マタイ28:18−20参照)。現実の世界を私たちがどのように理解するかにかかわらず、聖書は一貫して、神はキリストを通して今、「神のご支配」をこの地に実現しておられると主張している。宣教という表現を用いるならば、神はキリストを通して宣教の業、神の愛の業をこの地で行っておられるのである。そして、エペソ1:22−23で述べているように、キリストを通してなされる神の宣教のわざは、「キリストのからだ」である教会を通して、今、行われているのである。
 
III. 教会のわざとしての宣教
 ヨハネ20:21にあるように、神がキリストを遣わされたように、今、キリストはご自身の弟子、つまり教会を宣教の為にこの世界に遣わされている。そして、「キリストのからだ」である教会は、イエスご自身が担った役割の多くを、今、この世界で担っている。この役割の一つとして、「天と地(つまり、神と被造物)を結びつけるはしご」がある。イエスご自身が天と地を結びつけるはしごであったように(ヨハネ1:51)、教会も天と地を結びつけるはしごである。つまり、神はご自身の宣教の業に参画するようにと教会を招き、ご自身の宣教の地へと派遣される。
 神から遣わされて、神の宣教の業を行う教会のモデルとなるのがアブラハムである。創世記12:1−3を見る時、アブラハムは、主から祝福され、それゆえに祝福となるように命じられている。「祝福となる」とは「神がアブラハムを祝福した者を祝福することを通して、地上の氏族すべてが神の祝福を受ける」使命を果たすことである。そのために、アブラハムは、父テラと共にウルを旅立ち、その途上であったハランの地で、父の意志を継いで、カナンの地に行くように招かれた。そして、アブラハムは主からカナンの地へと派遣された。なぜ、カナンの地なのだろうか。それは、カナンこそ当時の交通の要所であり、そこに住むならば、あらゆる民に出会うことができ、結果的に、神の祝福がそれらの民に届くからである。このようにして、神はアブラハムを遣わし、遣わされたアブラハムを通して、彼が置かれている地で神ご自身のわざを行おうとされたのである。そして、自らを通してなされる神の業に参画するために、アブラハムは神の派遣のことばに応えて、使命の地へと離れ、出て言ったのだ。
 教会は、このアブラハムの使命をもって、全世界に遣わされている。「キリストのからだ」として、アブラハムの子であるキリストを通してなされる宣教のわざに参画するように招かれ、遣わされている。だからこそ、教会は、神が愛されるその愛し方をもって、この世界を愛する使命が与えられている。ケープタウン決意表明には次のように記されている。「神の愛は神のすべての被造物に及ぶ。私たちも、神と同様のすべての領域において、神の愛を反映するような仕方で、愛することを命じられている」(『ケープタウン決意表明』14頁)。従って、遣わされている教会こそが、神がこの世界を愛するその愛が最もあざやかに現れる「ホットスポット」である。神の愛の最前線として、神の愛を受けつつ、目の前の世界にこの神の愛を流れ出していく使命が教会に与えられている。
 
IV. いくつかの具体的な提案
 以上の議論を踏まえて、各個教会における伝道についてのいくつかの具体的な提案をあげる。
 まず、くり返し語られたとは思うが、「教会」とは「教会堂」ではない。「教会」とは神によってこの世界に遣わされている「神の民」である。従って、今置かれている場所で、私たちは教会として生きることが大切である。
 次に、これまで教会堂に連れて行くことが伝道であると考えられる傾向があった。しかし、本当の伝道とは、遣わされているところで神の民が人々を愛することである。従って、教会堂に連れて行くことは、伝道のはじまりではなく、伝道のゴールである。
 三つ目に、伝道とは、あくまでも神のわざである。神が愛されているその愛に、遣わされている教会が参画し、神の愛を受けて、それを流れ出していくことである。「神が愛されているから、その愛を受けて、その愛をもって隣人を愛する」という基本線をくずしてはならない。さらに、個人ではなく、教会が神の業に参画するように招かれている。つまり、遣わされている場所での個人プレー的な伝道では、神の愛を十分に流れ出すことはできない。遣わされているその現場で、教会が(数人の者が)協力して、神の愛の業に参画する必要がある。
 四つ目に、神がイエスを遣わされたように、教会がこの世界に遣わされているということは、神の愛の業に生きる教会に対する迫害と艱難は避けられない。教会の宣教のわざとは、十字架の道である。「よいことをやっているのに報われない、むしろ妨害される」のは当然であり、それゆえにいのちを失うことさえあるのだという覚悟が求められる。
 最後に、教会堂に教会が共に集まる礼拝は重要である。遣わされている所で小グループで集まって礼拝をすればそれで事足りるというのは、間違いである。神の民が「神に集められ、そして遣わされていく」その現実を絶えず思い起こし、神の福音を日々現実のものとして味わい続けるためには公同の礼拝が必須である。パンとぶどう酒に共にあずかることによって、神の食卓に集められたひとつの神の民であることを覚えることなしに、遣わされているところで共に神の愛の業に参画することは不可能である。