ケープタウン決意表明(12)

 パート1が終わりました。パート2の解説を書いております。すこしはしょっていますが、お読み下さい。なお、

ケープタウン決意表明

ケープタウン決意表明

をお買い求めになって、読むと、もっと言いですよ。宣伝でした。
 
パートII
私たちが仕える世のために:ケープタウン行動への呼びかけ
 
序論
 
 ケープタウン決意表明のパートIは、「愛」という動詞を中心にして、宣教的な観点からの信仰告白が述べられていました。続いて、パートIIは、行動への呼びかけが記されています。信仰告白と行動への呼びかけは、全く二つの別のものではありません。むしろ、「神との間の私たちの契約は、愛と服従を一つに結び合わせる」とあるように、神との契約のもとにある私たちは、神を愛するがゆえに、神に従っていく存在です。行動に表される従順のない信仰告白は無意味であり、キリスト者の行動は神がどのような方であるかという信仰告白に深く根ざしているからです。
 ですから、パウロ
 

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(1テサロニケ1:3)

 
と語り、信仰によって生み出される働きと、愛によって促される労苦を評価しています。それは、パウロのみではなく、神ご自身も評価されているでしょう。なぜならば、愛と結び合わされた服従こそ、私たちが新しく造られた目的だからです。
 

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソ2:10)

 
 さて、パートIIは、2010年の第三回ローザンヌ世界宣教会議の主要の6つのテーマに従ってまとめられています。そして、全世界のキリスト教会に差し迫っている課題がここであげられると共に、どのような優先順位をもってこれらに取り組んでいくか、大きな枠組みを提供しようとしています。しかし、これらはあくまで枠組みであって、普遍的なものではありません。それぞれの地域にあった優先順位があることも明白だからです。
 6つのテーマとは、「キリストの真理」「キリストの平和」「キリストの愛」「キリストのみこころ」「キリストの教会」「キリストのからだ」です。それぞれのテーマのもとで、いくつかの異なった(時には相互関係が明確ではない)問題が取り上げられています。ここでは、そのすべてについての解説を加えるのではなく、特に注目しておきたいいくつかの点について述べるにとどめます。
 
IIA. 多元的でグローバル化した世界にあって、キリストの真理を証しする
 
1. 真理とキリストの人格
 「真理」は一般的に、「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の道筋」と考えられています。しかし、イエスご自身が次のように語られているところから、真理について私たちは考え直さなければなりません。
 

わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)

 
キリストご自身がこの宇宙において「真理」です。つまり、真理とは単にことばで述べられる、「物事の道筋」だけでなく、キリストという人格そのものです。また、聖書の語る真理とは、いつの時代も、どの場所でもそうである(普遍的)でありつつ、それぞれの時代や文化という文脈に沿って考えられるべきものです。そして、真理そのものは最終的に明らかにされるものであると同時に、今、ここに存在します。「キリストご自身が真理である」という聖書の主張は、私たちの真理理解を再検討するべき事を教えています。
 真理であるキリストの弟子である私たちは、ですから「真理の民であること」を求められていエーエムス。つまり、真理を「知っているだけ」ではなく、「真理に生きる」ことが求められています。私たちが真理に生きるとき、私たちの「顔のうち」、つまり生き方そのものから真理であるキリストを見いだすことができます。しかし、単に「真理に生きる」ことだけにとどめていては不十分です。「福音の真理をことばで語って告知する」ということばによる宣教を軽視してはいけません。ただし、「真理に生きること」と「真理を語る」ことが一致して初めて、宣教は前進します。
 聖書的福音という「真理」は、決意表明のパートIで学んできたように宇宙規模の大きさをもつ、大変豊かなものです。単なる個人的な救済としてでもなく、他の神々や人間の知識が与えるものよりもすぐれた問題解決法としてでもなく、「キリストにおける神の全宇宙に対する計画」として提示する必要があります。多くの人は、自分の問題の解決や必要を満たす、という個人的な観点からキリストのもとに来るでしょう。しかし、キリストが真理であることを見いだし、その真理が全宇宙への広がりを持っているものであることを見いだしたならば、キリストのもとに留まり続け、その福音宣教者となっていくでしょう。
 
2. 真理と多元主義が提起する課題
 様々な宗教が混在する日本に生きる私たちにとって、様々な宗教がそれぞれの真理を主張することはなじみ深いことです。そして、ある意味で、幸いなことに、それぞれが主張する真理は時に競合しますが、多くの場合、それぞれの主張を尊重して、共存しようと努めてきました。
 その一方で、現代の哲学者たちは、絶対的真理や普遍的真理はありえないと考えます。真理は、特定の時代の特定の文化が決めるもので、どれひとつをとっても、絶対ではない、という「相対主義」を語ります。寛容は勧めますが、先進諸国ではむしろ「信仰に則った真理」が抑圧されるということも起こっています。
 福音の宣教は、いわゆる普通の人だけを対象にしたものではありません。高度な知的なレベルで真理を考える人たちへの福音の宣教も大切です。そのようなレベルの人とも渡り合って、福音の真理を語る事ができる人が教会に育つことも必要です。また、すべてのキリスト信者が、日常の中で真理を語り、この世界の様々な出来事とキリストの真理をもって対話できるように、備えられることも必要です。
 
3. 真理と職場
 「聖書は、私たちが様々な召しにおいて神に仕えるという意味で、私たちの職業生活全体をミニストリーの領域内に含めている」。この文章は大切なことを語っています。教会の中には聖俗分離という間違った考えが浸透しています。それゆえに、牧師と信徒が極端に分離されたり、宗教活動とその他の活動の完璧な分離が求められ、世俗の仕事は霊的な価値が低いものと考えられるのです。しかし、聖俗分離は間違っています。全生活の主である神は、パウロを通して、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)と私たちを招いています。すべての仕事は主に対するささげものとして、なすべきです。
 職場こそがクリスチャンでない方と人間関係を最も多く持つ場所であり、仕事自体が私たちの時間を費やす大切なものです。しかし、教会はそれを怠ってきました。そして、「全生活をキリストの支配下に置く」ことを怠ってきたのではないでしょうか。ですから、職場でどのように歩むか、職業をどのように考えるか、今こそ問うべきでしょう。
 教師や宣教師は、キリストのからだの一部にしかすぎません。宣教は彼らだけがする働きではありません。むしろ、それぞれのキリスト者が、神から働くように召された場所こそがミニストリーと宣教の場です。そして、そのように取り組めるように教会は人々を助ける必要があります。つまり、あらゆるキリスト者が、「聖書的な世界観に立って、宣教にとって有効なやり方で、生活し、思考し、働き、話すこと」ができるように訓練することが大切です。また、そのような方々こそが従来の宣教師たちが行くことのできない所に行くことができ、「テントメーカー」として働くことができます。テントメーカーを世界宣教の戦略に組み込むことも大切でしょう。これは、単に閉ざされた諸国に対する宣教だけを意味しているわけではありません。地元の共同体でも、そのような場所があるのではないでしょうか。ですから、教会は、職場という宣教地へと信徒ひとりびとりを送り出す意識を持ち、そのために取り組むことが大切です。
 
4.ではグローバル化したメディアに対して、批判的でありつつ、創造的な取り組みの必要が語られています。また、5.では芸術は神の美しさと真理の側面を映し出す場であるにもかかわらず、それが未開発であることを覚えて、芸術を宣教の為に積極的に巻き込んでいくことが求められています。7.では政府や教育の場でのキリスト者の必要性と汚職に対する抵抗の必要性が語られています。
 
6. 真理と先端技術
 あらゆる先端技術の進歩の中で、これらの技術が人間性を操作、歪曲、破壊するために用いられるのではなく、人間性を保護し、それを実現するために用いられるように教会は行動することが求められています。先端技術の分野で働いている者を励まし、その内容について知り、クリスチャンとして正しい知識に基づいて批評できるようになることも大切でしょう(原子力発電の問題など)。新技術が登場してきたとき、それを検討し、公共政策の方向付けに影響を与えるようになることも大切です。そして、人命の固有さの尊厳と神聖性が尊重されるように勧める必要があります。