聖書を読む(2):原動力としての信仰?

 昨日の議論の中で、書ききれなかったことを。
 聖書を読み、その意味を考える原動力として、信仰を位置づけると文屋先生は言っていた。何となくわかるような木がする。その時、昔、Ellen Davisとクラスのペーパーについて話をしている時、人をテキストの釈義に向かわせるものはなにか、という話になったことを思いだした。その結論まで話をした覚えはないが、一体何だろうか。
 聖書に向かわせる一つの前提は、聖書にはなんらかの答えがあるという期待である。それも、単なるこの地上的なものとしての期待ではなく、超越的存在(つまり神)からの答えがある、という期待である。聖書という文書と超越者との特別な結びつきについての期待であろう(かつて、神殿があった時は、神殿での礼拝が超越者との結びつきという期待を担っていたと思うが、紀元70年以降、聖書という文書がこれに取って代わっていった)。この期待を「信仰」と呼ぶことはできるだろうが、この信仰は決していわゆる信仰者にしかないものではない。信仰者でなくても、超越的存在からの答えがあると期待するからこそ、聖書に向き合うことがある。この期待、信仰と呼ぶとしたら、原動力なのだろうか。一種の原動力だろうが、これを前提と考えたい。なお、この期待は、どこかから突然に降って湧いてきたようなものではない。キリスト教会という信仰共同体に生きる者たちは、その共同体の伝統の中に生きているからこそ、そのような期待を聖書に抱く。そして、聖書という聖なる文書への期待は、信仰共同体にとどまらず、聖書についてなにかを知っている人々にも与えられるものだろう。共同体とその伝統に結びついた期待であると同時に、そこから周辺へと広がっていく期待である。
 では、原動力は何か。期待だけではそこまで聖書を読もうとはしない。原動力と言っていいのかわからないが、解釈者とその共同体が置かれている現実があるから、先の前提に立っている人は、聖書の解釈に向かう、と考える。世間一般の世界理解と生き方では解決できないなんらかの現実が、人を聖書を読むことに向かわせる。
 
 それじゃあ、聖書を古典として読む人はどうか。単なる暇つぶしに読む人はどうか。わからん。しかし、人と共同体が、そのままでは解決できない何らかの現実に出会う時、聖書を読む可能性が生まれるように思える。