アンドリュー・マーレーの続き

 クリスチャン新聞にローザンヌの感想に基づく論説が載ったあと、ある方から手紙を頂いた。そこには、次の本の一部がコピーされていた。

The Church Struggle In South Africa

The Church Struggle In South Africa

 そこには、アンドリュー・マーレー親子の話が書かれていた。ちなみに、日本で有名なのは、Jr.、つまり息子のほうであって、父ではない。
 1820年以前、ケープには、主にオランダで訓練を受けた改革派の牧師が多かった。ところが、1820年以降に、スコットランドで訓練を受けた長老派の牧師が来るようになり、その中にマーレー親子がいたらしい。そして、息子の方のマーレーの働きを通して、19世紀半ばにリバイバルが起こり、福音的な神学とリバイバル的な敬虔が広まった。これは時を同じくして起こっている海外宣教運動とも結びついている。
 この時代は、理性主義に基づく教会のリベラル化も起こっていた。その一方で、それに対抗するように、オランダではアブラハム・カイパーの影響が強くなり、カルヴィニズムが復興し始めた。その影響は、ケープタウンにもおよんだらしい。その結果、19世紀半ばのケープは、もともとのオランダ改革派(リベラル化)、福音派(マーレー)、カルヴィニズム(カイパーの影響)の三つが現れていた。
 このようななかで、海外宣教運動の流れで、福音派の宣教師がケープにも訪れて、白人のみならず、黒人にも宣教をした。1829年の教会会議では人種による分離は大きく否定され、聖餐も当然、人種の分離とは関わりなかった。ところが、1857年の教会会議において、ここから大きく離れていった。一部の「弱い人々」のゆえに、異教徒からの改宗者と白人たちとは別の礼拝をもってもよいことが決議された。この分離、人種の違いもその原因のひとつではあるが、もうひとつの原因があるようだ。それは、Gustav Warneckの宣教論の影響である。そこでは、福音はそれぞれの国や民に、それぞれの文化にふさわしく語るべきであると言われている。この影響を受けて、宣教的な教会は民族や文化の違いに応じて教会を分離し始めた。
 ちなみにここでいう「弱い人々」とは白人のことである。彼らは改宗した黒人たちとは同じ礼拝を守れなかった(文化の違い)。このプレッシャーの下にマーレーもあり、この人種の分離を認める会議の話に賛成したようだ。そして、成長する教会は、人種別の状況のままで広がっていった。
 この背後に、著者によると、「被造物には、その主権においていくつかの、分離されるべき階層がある」というカイパーの理解やルターの「被造物の秩序の教理」があるらしい。これらが、(誤解されたか、どうかはわからないが)ケープの教会に広まっていった。そして、それが国の社会構造に影響を与えた。
 このような紹介を読んで、ある意味、ぞっとした。それは、現代の宣教学が「文化脈化」を重んじ、それぞれの文化にふさわしい礼拝を、と語っており、それが教会にも深く入ってきているからである。文化脈化そのものには反対ではない。しかし、文化脈化が、結果的に、文化が異なる人々が共に集う教会を妨げてる可能性があるからである。そして、文化脈化がある意味で進みすぎ、そのような教会が社会に大きな影響を及ぼす時、南アフリカに起こったような「人種隔離」を教会もしらずしらずのうちに受け入れてしまう。教会成長で一時はやった「ホモジーニヤス・ユニット」という考え方も、ある意味で危険性をおびえているのだ。
 聖書がかたる教会のビジョンは、文化脈化による福音の土着化にとどまらない。それぞれの文化に土着化した教会が、共に集って、今度は異文化、異人種の祝宴となることである。それぞれの文化で主を賛美しつつ、その最終的目標はいつも「文化の衝突による祝宴」である。この視点を忘れて、「文化脈化」だけを主張するのは、危険だろう。
 そういえば、現代の若者への伝道を考える議論でも、同じことが言えるのかも知れない。若者への伝道に特化した教会へとなっていく時、今度は、若者とそうでない世代の間の文化の違いを固定化する危険性がある。教会は、世代の違いが衝突しつつ、それが最終的には祝われる場所である。このことを忘れてはならない。
 いい勉強をさせてもらった。