身体技法としての霊性

 まず、内田樹の文章を。

ほんらい、先人たちが発明工夫したすべての身体技法は「他者との共生」を「生き延びるための必至の技術」として骨肉化することなしには術技が向上しないように構造化されている。ゲーム性が強いスポーツの場合は、その事実が前景化しにくいというだけのことである。
あらゆる身体技法は、人間の身体能力のうち計量可能なものだけを選択的に発達させようと考えるときに衰微する。
学校体育は「成績評価」をしなければならないという「縛り」があり、プロスポーツは勝敗強弱を明らかにし、タイムを計り、技術を点数化し、ランキングを決定することなしには成立しない。
これらは「計量可能な身体能力」だけの選択的開発を私たちに要求する。
だが、すべての身体技法が最終的に要求している「他者との共生能力」は人間の能力のうちもっとも計測しにくいものの一つである。
なぜなら、それは属人的な能力ではないからである。
その能力は現に所与の、偶然的な「場」において、「共生を果たした」という当の事実を通じて事後的に判定されることしかできないのである。
宴会というのも厳しい言い方をすれば、いわばある種の「共同的身体運用」である。
そこで自分のいるべき場所を探り当て、自分のなすべき仕事を見つけ出し、「宴会する共−身体」の一部になり切ることが実は求められているのである。
知らなかったでしょ。
なんと、私は宴会しながらも、門人諸君の身体能力の開発を心がけているのである。
「自分の割り前」の仕事をそこで果たすことと「自分の取り分」の愉悦を確保することは似ているようだが質の違うふるまいである。
門人諸君もそのあたりの呼吸をよく呑み込んで「宴会道」の極意めざして、さらなる精進に励んでいただきたいと思う。(内田樹の研究室「宴会道心得」より)

 霊性はからだですることである。つまり、内田が言っている一種の「身体技法」である。そして、霊性とは「『神と』他者との共生」を「生き延びるための必至の技術」として骨肉化するものである。言い換えるならば、霊性とは神の臨在が表される共同体の中で生きる技術として現実となる。時として、霊性を評価する必要があるのかもしれない。事実、ATAの大会に出て行った時、学生の霊性をどう評価するか、で多くの学校の人々が悩んでいた。しかし、霊性として計量可能なものを抜き出すと、それだけを発達させようとしてしまうだろう。祈りのことば、回数。しかし、霊性は、計測しにくい。釈義なら、論文を書かせれば、ある程度わかるだろうが、霊性は分からない。ただわかるのは、牧会の一現場、伝道のある一現場において、その偶然的な場において、「神と人と共生を果たした」という事実を通じて、事後的に判断される。試験はできない。
 神学校の教育に関わる時、その学生の状態を評価する必要に迫られる。しかし、神学生教育の最も大切な部分にあたる霊性は、偶発的な場における現実を見ない限り、わからない。そういう意味では、寮生活という場は、その学生の霊性をはかる意味で、大変意義ある。偶発的な場が、それも己の霊性を発揮しなければならない場が、幾たびも現れるからである。