通過儀礼としての割礼

 今度の伝道会議で話す内容の概要を提出した。そんなわけで、それをここに記載する。
 とはいえ、まだ、いろいろと手を入れ、参考文献をあさり、発展させるつもりではある。
 
割礼から学ぶ通過儀礼の聖書的意義
 
1. 通過儀礼としての割礼
 アブラハムと主との契約に基づいて制定された割礼(創世記17章)は、「誕生の通過儀礼」と「入会の通過儀礼」の二つの側面をもつ。誕生から八日目にイサクが割礼を施されたこと(創世記21:4)と「誕生して八日目の割礼」が律法として制定されていること(レビ12:3)は、割礼がイスラエル共同体における「誕生の通過儀礼」であることを示している。その一方で、婚姻関係を結ぶことの前提条件として割礼を受けることをヤコブの息子たちがハモルとシェケムに提案し、それを受けさせたこと(創世記34:13-24)と共に、金で買った奴隷も在留異国人も割礼を受ければ過越のいけにえ、つまり共同体の食事に与ることがゆるされること(出エジプト12:43-49)から、割礼がイスラエル共同体における「入会の通過儀礼」の働きをも担っていることがわかる。
 
2. 割礼とナラティヴ
 割礼は、イスラエル共同体のナラティヴと深く結びついた儀礼である。まず、主とアブラハムとの契約において、「カナンの全土をアブラハムとその子孫とに永遠の所有として与える」という主の約束との関わりの中で割礼という誕生の儀礼が制定されている(創世記17:8)。次に、過越の食事にあずかるための必要条件は割礼であること(出エジプト12:43-49)から、割礼と過越の間に密接な結びつきがあることがわかる。つまり、過越に象徴される出エジプトの体験は、割礼と無関係ではない。最後に、ヨルダン川西岸のギルガルにおける割礼(ヨシュア記5:2−9)はイスラエル共同体の世代交代の象徴と過越(5:10-12)の必須条件であるのと同時に、「カナンの地を与える」というアブラハムとの契約が新しい世代を通して実現することを示唆する。割礼に焦点を当てナラティヴをつなぎ合わせていくと、「主がアブラハムとその子孫とカナンの地が将来、永遠の所有として彼らに与えられるという約束」から「約束されたカナンの地への侵入と定住」という流れが浮かび上がる。したがって、出エジプトとも密接に絡み合いながら、割礼という通過儀礼イスラエル共同体がどのような契約に依って立つ主の民であるかを物語っていることがわかる。
 
3. 割礼と共同体の歩み
 割礼は通過儀礼であるのみならず、イスラエル共同体のあるべき姿、すなわちカナンの地を与えるという契約を設立された主の要求を象徴している。したがって、この通過儀礼が意味する生き方を共同体に属する者に普段から思い起こさせる機能が割礼には与えられている。割礼が象徴する生き方を例として二つあげる。(1)神の約束は人間の知恵や策略によってではなく主の奇跡的なみわざによって成就することを認めること(創世記17章)。(2)「心の割礼」(申命記10:16)に表現されるように主の命令に従うこと。
 
4. 通過儀礼と教会
 教会での通過儀礼を考える時、バプテスマが共同体への入会と誕生の通過儀礼として機能していることは明白である。はたして、この通過儀礼のもつ豊かさなナラティヴと生き方を普段から自分たちのものとしているだろうか。割礼が一生忘れることのできないしるしを残すように、キリスト教共同体の入会と誕生の通過儀礼は深いしるしを私たちに残しているのだろうか。