文章は接続詞で決まる
- 作者: 石黒圭
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/09/17
- メディア: 新書
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日本語の接続詞を、論理の接続詞、整理の接続詞、理解の接続詞、展開の接続詞に分け、それに加えて、文末の接続詞を議論している。接続詞が内包する特徴を、わかりやすくまとめているし、例文も多く、ためになる。
石黒圭は、接続詞を「接続詞とは、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である」(27)と定義している。単に、後続文脈にどのようにつながるのかだけを示しているのではなく、「先行文脈を受けなおす」が含まれている点は、目が開かれる。つまり、これまで何を言ってきたかが、接続詞の中に前提として含まれているのだ。
接続詞は「論理的記号」のように理解していたが、彼の次のことばは目が開かれる。
接続詞で問われているのは、命題どうしのの関係に内在する論理ではありません。命題どうしの関係を書き手がどう意識し、読み手がそれをどう理解するかという解釈の論理です。(31-32)
接続詞を見るならば、話者がその命題をどのように解釈しているか、さらに話者がその命題を読み手にどのように理解してほしいのかがわかる。
このポイントが興味深いのは、ヘブライ語の接続詞にこの概念を当てはめることができるからである。
ヘブライ語において、二つの文章が並べられる時(並行法)、単純な「ヴァヴ」が使われる。しかし、そのヴァヴは「そして」とも訳すことができるし、「しかし」と訳すこともできる。「そして」と訳せばsynonymous parallelism、「しかし」と訳せばantonymous parallelismとなる。この考え方で並行法が分類されてきた。ところが、ヘブライ語では、「ヴァヴ」に過ぎない。話者またはテキストは、あえてここで接続詞を使い分けていない。つまり、synonymousかantonymousかをヘブライ語自体は問うていないのだ。つまり、従来のsynonymousかantonymousか、という分類は、翻訳された文章における、翻訳者という話者の解釈に基づく分類であり、ヘブライ語の箴言そのものが読者に求めている分類ではない。
ところが、Kugelなどが提案している「A, and more B」という並行法の理解は、むしろ、接続詞に変化のないヘブライ語の並行法を理解するには適したものであることがわかる。もちろん、この「and more」の部分をどう解釈するか、テキストは読者に問いかけている。この部分において、同じ内容を積み重ねていると「解釈」するのか、対比する内容を提示していると「解釈」するのか、読者は解釈における決断が求められるわけだ。このようにして、ヘブライ語の並行法の解釈は、私たちを並行されている内容そのものへと導く。だから、並行法の解釈には、幅が生まれる。
このあたりは本当だろうか。しかし、Kugelの解釈の正しさを直感しつつ、それがうまく整理できない部分を、石黒圭の接続詞理解が助けてくれそうだ。
ちなみに、石黒圭は、一橋大の准教授だが、どうもクリスチャンのよう。その後書きには、SDGの文字が。「ただ神に栄光を」である。