一神教の誕生

一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)

一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)

 ストラスブール大学で学位を取った千葉大の教授の著書。どんなものを書いているのか、と思い、買って、読んでみる。
 はっきり言って、ダメ本。
 保守的だ、リベラルだ、という枠組みでダメ、と言っているのではない。古代中近東や紀元一世紀のパレスチナの文化、社会、宗教的背景を十分に考慮せず、むしろ近代の西洋社会における宗教のイメージを時代錯誤的に当てはめたように思える。そんなわけで、途中からあんまり読む気がなく、ほとんどさあっと読み進めた。
 問題はたくさんあるが、単純な所から二つ。罪の概念と契約の概念は、紀元前八世紀後半の北王国滅亡のよって誕生してきたという考え方。律法が古いか新しいか、という議論は意見が分かれるので、用いない。しかし、アモスやホセアなどの預言者はどうなるのだろうか。どう考えても、彼らには罪の概念も契約の概念も明確にある。
 もうひとつのキリスト教社会の三重構造。指導者、信者、非信者という三重構造がある。これは中世の西洋社会では、たしかに存在した。この構造の発生は、ローマ帝国キリスト教化による。しかし、キリスト教化以前、教会は迫害化にあった。少数派、迫害化の教会は、ヒエラルキー的な三重構造などない。指導者と信者の階層的分離は考えにくい。また、信者と未信者の階層構造も考えられない。迫害をしている未信者たちを「下の階層」と考えていないと思われる。国教化されたキリスト教と迫害化のキリスト教では、宗教社会的に大きく異なっている。しかし、その継続性が訴えられている。
 真剣に批判するなら、もっと読み込むべきだと思う。しかし、そのようなエネルギーを使う価値があるか、と問われると、そうではない、と答える。
 それにしても、イエスと初代教会に対しては、かなりリベラルで、批判的な立場である。また、律法や神殿に対しては批判的。ところが、古代イスラエルの歴史に関しては、紀元前13世紀の出エジプトによってユダヤ教が生じたと言っており、じつはかなり保守的。なんとなく、ちぐはぐに思える。