日本の葬儀(その4)

 今日、教会で学び会。結構、好評。今日がその内容の最終回。

IV. キリスト者は何ができるのだろうか
 
 日本の葬儀や習俗の起源や目的を述べてきましたが、これらを受けて、わたしたちキリスト者はどのように向き合うべきでしょうか。
 
1. 聖書の原則から
 まず、聖書から私たちの生き方の原則を確認しておきましょう。その大原則は、マタイ22:37-40にあるように、「ただ神だけを愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」です。イエス・キリストの父なる神以外を礼拝するべきではありませんし、それと同時に、隣人(キリスト者でない人も含めて)をこころから愛する生き方が大切です。
 さらに、偶像や異教との関わりの中で、三つのポイントが大切です。
 まず、唯一の神以外は存在しませんから、偶像も存在せず、全く気にする必要はありません。しかし、そのようなことをまだ十分に深く理解できない信仰の弱い人の良心が踏みにじられ、つまずかないように、偶像との関わりを一切立つという立場があります(穵コリント8章、10:23-11:1)。
 それと同時に、偶像と関わることによって、悪霊と関わるようになる、という理解もあります。その結果、かつてのイスラエルの民のように、主の裁きを引き起こす可能性があります。ですから、偶像とは一切関わりを持たないという立場があります(穵コリント10:1-22)。結論、つまり偶像と関わりを持たない、という点では最初の立場と一致しますが、心をつかうべき相手が隣人ではなく、主ご自身である点が大きく異なります。
 旧約聖書を読む時、異教の神々を徹底的に破壊する記事が多く書かれています。その中で、異色を放っているのが、シリヤの将軍ナアマンの例です(穸列王記5:15-19)。彼は皮膚にできた病気をいやしてもらうことにより、イスラエルの神である主以外に神はいないことを知りました。そして、主以外のだれにもささげものをしないと誓ったのです。しかし、彼の立場上、主君とともにリモンの神殿に入り、そこで拝む場合があります。異教徒とともに住みために、異教の神の礼拝所にいくからです。エリヤはナアマンのこの行動を許しています。
 旧新約聖書に描かれているこれらの原則や例を見る時、「習俗だからすべて人の言う通りせよ」ともいえませんし、その逆に「あらゆる異教的なものは徹底的に排除せよ」とも言い切れないことが分かります。ですから、そこで、キリスト者の生き方の大原則である「神を愛す」「隣人愛す」ことが大切になってくるのです。
 
2. 具体的にどのように向き合うのか
 具体的にどのように向き合うのでしょうか。
 ナアマンの例を考える時、キリスト者であっても、その立場上、異教の式典に関わることが避けられないケースがあるのは理解できます。もちろん、そこで戦い、関わらないことを主張することも可能です。その逆に、習俗だからすべてを他の人と一緒に行う、という選択も可能です。しかし、今回の学びの強調点は、「多くのひとが何気なくやっていることの意味を知る」という事でした。いろいろな行動の背景、意義、変遷などに全く興味を示さないで、「みんながしているから、するのだ」という発想は間違っています。キリスト者であるからこそ、他の人が何気なくやっていることでも、その意義をしっかり理解する必要があります。
 厄年、お札、お守り、まじないなどは明らかに「神を愛する」という点から避けるべきです。しかし、知人がその愛の心をもってお守りを送ってくれたりした場合、相手の愛の心への思いやりをもって、対応すべきです。
 仏式の葬儀に出席する時、どうするべきでしょうか。
 まず、大切なことは、なくなった方のご家族への愛を忘れないことです。できる限り早く弔意を表すために訪問する、葬儀のための背後の手伝いを一生懸命に行う、など、愛をもって仕えることを忘れてはいけません。また、葬儀のあとにも愛をもって仕えることが大切です。そのような姿勢なしに、「自分はキリスト者だから」という一言だけですべてを拒絶していたとしたら、「隣人を愛する」という生き方からはほど遠いものでしょう。
 家族が数珠などを持たせる場合があるでしょう。数珠は厄除けではなく、拝む、また念仏を唱える時のしきたりとして持つものです。ですから、配慮してくれた相手へのあたたかい思いを覚えつつ、持たないほうが良いでしょう。
 焼香はいつも議論されるところです。「遺体が臭くなるので、香をたくのだ」「仏教において、遺体を拝むことはない」と割り切って、焼香をすることも可能でしょう。しかし、日本の多くの人が「亡くなった方の霊に香をささげているのだ」と理解している点を考える時、そういう人に対してどのように向き合うのか、考えさせられます。異教の神など存在しない、けれども隣人への愛の配慮ゆえに、異教の神に捧げられた肉は決して食べない、いやあらゆる肉を食べない、と宣言したパウロの姿勢をみならう必要があるかもしれません。焼香をせずに一礼して祈ることも可能でしょう(筆者はそうしています)し、花を自分で準備して、それをささげてくることも考えられます。
 決まり切ったひとつの答えはありませんが、祈りつつ、行動の意味を理解しつつ、この国で主を証ししつつ歩んでいきましょう。
 
参考文献
ひろさちや『お葬式をどうするか』(PHP新書)、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)、勝本正實『日本人はなぜキリスト教を避けるのか』(いのちのことば社)、橋本巽『日本人と祖先崇拝』(いのちのことば社)、『新クリスチャン生活百科』(いのちのことば社)。