日本の葬儀(その1)

 今度の日曜日にする学びのレジメのドラフトができたので、数回にわけて、掲載します。
 
 なぜ、葬儀をするのでしょうか。なんとなくしきたりであるから、と行っていると思いますが、一般の日本人にとって、葬儀には二つの目的があります。まず、「遺体の処理」をするということ。続いて、「魂の処理」をする、ということです。
 「遺体の処理」は、多くの場合、火葬で行っています。そして、「魂の処理」は、仏教の儀式によって行うのが一般的です。仏教の儀式を通して、死者のタマシイを祖先のタマシイにまで高める祭祀をおこなっているのです。ですから、無意識でしょうが、日本人の多くにとって一番大切なことは、仏教の儀礼にあるのではなく、死者のタマシイを「ご先祖」とよばれる、祖先の霊の集合体にまで昇華させる点にあります。この「魂の処理」に仏教が関わるようになっているから、日本の仏教は「葬式仏教」と呼ばれるのです。
 日本に住むひとの多くは、ある特定の宗教の自覚的な信者ではありません。むしろ、自然に発生した宗教意識を持っています。その宗教意識とそれなりに共鳴しているのが、現在の仏式の儀式なのです。その結果といってはなんですが、仏教本来の「生きている自己の生死の問題を解決する」という根本的趣旨は、日本の仏教において失われてしまいました。しかし、日本に土着した仏教、つまり葬式仏教が広がっているのです。

 本来、お葬式は村落共同体が執り行っていました。村の長老が葬儀を執行していました。そして、仏教は葬儀にはかかわっていませんでした。ただ、出家した僧侶は、家族との縁を切っておりましたから、かれらのために葬儀を仏式で行うことはありました。
 それでは、なぜ、仏教の儀式を通して、「魂の処理」を行うようになったのでしょうか。
 仏教がお葬式を本格的に始めたのは江戸時代からです。キリシタンの取り締まりするために、江戸幕府が寺請制度・檀家制度を設けました。日本人全員をお寺に登録させ、お寺に役所の戸籍係と同じ仕事をさせ、宗門人別帳を作成しました。ここに記され、その寺の檀家であるという証明の寺請証文を受けることを人々に求めました。この証書がないとキリシタンだと疑われます。そして、自分たちが檀家であるお寺で葬儀をするように求めたのです。
 なぜ、「葬儀を仏教寺院でする」ことに江戸幕府はこだわったのでしょうか。それは、キリシタンには、死の秘跡という考え方があり、臨終に近づいた者に対して「終油」の秘跡を神父が行うことになっていたからです。これはローマ・カトリック教会独自の考え方です。天国へ行くことの保証という意味がありました。ですから、キリシタンならば、必ず、キリスト教式のお葬式をします。そこで、そのような葬儀を行おうとする者を取り締まることによって、キリシタンを取り締まろうとしたのです。ですから、日本の葬式仏教には、その一番始めの時から、「反キリスト教」的なものでした。なお、ローマ・カトリック教会において、現在では病者への塗油という形で、臨終に際するのみならず、油を注ぐ儀式やより広く行われています。

 寺請制度が置かれても、実際に葬式を仕切っていたのは村落共同体内のグループ(葬式組)でした。そして、彼らが、棺や葬具をつくる、死装束を縫う、炊き出しをする、棺をかつぐ、墓穴を掘るなどの裏方の仕事を行っていました。寺請け制度がによって大きく変化したのは、葬儀の形式です。僧侶は、自分たちの仲間(つまり出家した人々)の葬儀と同じ形で、僧侶でもない人の葬儀をするようになりました。しかし、出家もしていない人に僧侶のための葬儀は普通ではできません。そこで、死者を出家させ、僧侶と見なすという工夫をしたのです。そこから、生まれてきたのが、戒名でした。

 出家した者は、師につき、その師から戒律を授けられ、それを守ることを約束して弟子となります。その時に、師からつけてもらうのが戒名です。ですから、出家した者に与えられる名前が戒名です。葬式仏教において、死者は、にわか仕込みで出家し、戒名を授けられます。しかし、今まで、仏教の学びを一切していないのですから、葬儀において僧侶は、出家した弟子(つまり、死者)に法を説かなければなりません。ですから、葬儀に読まれるお経とは、出家した死者に僧侶が授けている法です。死者の立場から見ると、葬儀は仏教の勉強の時なのです。ですから、告別式で読まれるお経が参列者にはちんぷんかんぷんであるのは当然です。なぜならば、僧侶たちは参列者にお経を説いているのではなく、出家させた弟子、つまり死者に説き、仏教の勉強をさせているからです。

 さて、葬式が地域共同体の手から放れ、葬儀社によって運営されるようになったのは、明治時代の都市からです。まず、葬列がイベント化されましたが、これはすぐにすたれてしまいました。しかし、明治末期に白木の祭壇が葬儀社によって発案された。また、霊柩車を大正期に同じ葬儀社によって発案されました。かつては土葬していたものが、火葬への変化してきたのも大きな影響を与えているようです。なお、喪服も、旧来は白でしたが、明治の欧米化政策の一環で黒が礼服の色となり、和服も黒に変わって行きました。