授業

 今日はヘブル語の授業。名詞についての話と喉音についての話をまとめて。
 なぜ、名詞の複数形について考えるのか、とか、接頭辞や接尾辞について考えるのか、を思う時、なるほど、と思うことがあった。それは、どれも「語根を知る」ことが目的になるからだ、という点。喉音の特徴を知るのも、ヌンの特徴を知るのも、ヨッドやヴァヴの特徴を知るのも、究極的には「ある語から語根を見いだす」という作業に必要であるから。
 BDBという辞典を用いる限り、語根を知ることは必須事項である。しかし、Holladayの辞書などを使うならば、語根を知らなくても辞書は引ける。しかし、語根を知らないと、ヘブル語の本当の楽しみの一部が明らかにわからなくなる。
 もし、「語根を知る」ことがヘブル語の学びの大切な部分であるならば、それに焦点を当てたヘブル語の初級文法が必要になるような気がする。Seowの教科書は、直接的にそのことを目標とはしていると述べてはいないが、実際は、語根を知ることが最初の目標となるきがする。
 そうだ。
 まず、語根を見分けて、名詞を自分で辞書でひけるようになるために学ぶ。
 次に、名詞構文ができるように学ぶ。この部分では、語根を知ることは、辞書を引くことと直結する。
 次に、形容詞と動詞的形容詞(分詞)からより発展した文章が理解できるように学ぶ。この部分では、分詞をパーシングするにあたり、語根の知識は重要である。
 次に、動詞(完了形)を使って文章が理解できるように学ぶ。語根がわからなければ、動詞のパターンはわからない。
 そして、動詞(未完了形)を使って、文章を理解できるように学ぶ。ここでも、語根がわからないと、動詞のパターンはわからない。
 このように考えると、Seowの初級文法書は、あくまでも自分で辞書を引いていくことに焦点を当てて、書かれていることがわかる。自分で辞書(BDB)を引くのだから、語根を見いだすことに最初の時間を費やすのだ。
 それでは、自分で辞書を引かなくても、コンピューターのプログラムなどで単語がわかり、パーシングがわかる、という現実では、どのような授業の組み立てをするべきなのだろうか。パラダイムを覚えることに、意味があるのだろうか。新しい初級文法書のグラマーが生まれつつあるのかも知れない。