ダニエル書を読む(その2)

 昨日、ダニエル書について、その解釈について考えた。しかし、なんとなくまだ不十分。
 一番大きい問題は、黙示文学は本質的に「一義的な解釈」を求めているのか、という点。ジャンルを正確に認識し、適切な歴史的、社会的、文化的、神学的情報があれば、「角」は一義的に、たとえば「アンティオコス」であると理解できるのか。それとも、黙示文学というジャンル自体が、その象徴的な表現のゆえに、一義的に決まることを拒絶するのか。帰納的聖書研究法の観点から言うと、解釈のレベルで一義的に決められるのか、解釈のレベルでも一義的であることを拒絶するのか、という疑問である。これは黙示文学だけではなく、預言書でも十分に可能性が生まれてくる。たとえば、イザヤ書7章のインマヌエルが誰であるのか、という問題である。
 黙示文学や預言書は、時として、あえて一義的に決まることを拒絶している可能性を感じる。つまり、解釈のレベルにおける多様性は存在するのではないか、と考えている。
 どうなんだろうか。もちろん、多くのテキストの場合、一義的に決まるだろうが、それを拒絶するような黙示文学や預言書の例(たとえば今回の「角」や「インマヌエル」)もあると思う。やっぱり、ケースバイケースか。そうなると、witheringtonみたいに、確信的にいえないような気がするのだが。