ダニエル書を読む(その1)

 先週から、教会の祈祷会ではダニエル書を学んでいる。テーマとしては、終末に関する聖書の箇所を学ぶ、ということである。そんな訳で、ダニエル書の後半、そして、ゼカリヤ書の後半、エゼキエル書の一部を読む予定にしている。その後、福音書の終末論、パウロの終末論、黙示録、と話を進めていこうと思っている。
 ダニエル書を読みながら、witheringtonの聖書理解について、少し思いを馳せた。
 ダニエル書7章に出てくる「角」。一体何を意味するのか。歴史的に読む時、ダニエル書の歴史的文脈から考えると、シリアのアンティオコス4世を指している、という答えが帰って来る。しかし、黙示文学というジャンルを考えると、歴史的な答えでは不十分となる。なぜならば、幻とその解説ということを通して、「角が何を指しているか」という問いに対する答えにある程度の曖昧さを残しているからである。だから、新約聖書の時代には、「角はローマ帝国」という理解が生まれてきた訳だ(ユダヤ人にもキリスト者にも)。そして、現代においても、種々雑多な解釈が生まれている。
 黙示文学というジャンルを心に留める時、ある歴史の文脈のなかで、一義的に解釈すること自体が、ジャンルの特徴に逆らう場合が存在する。時代的普遍性をもつことを目的として、黙示文学というジャンルが生み出されたいる可能性がある。ジャンルそのものが、時代を超えて語りかける特徴を持っている。そうすると、黙示文学においては、歴史的な文脈に対する厳密さをある程度括弧に入れた「正典的な読み方」こそが、歴史的な読み方なのかも知れない。おっと、この辺は、christopher seitzの小預言書に関する本を読み直す必要がある。
 それとともに、黙示文学がいつも指し示している「最終的な神の支配」がいまだに到来していない現実も、黙示文学の理解に幅を持たしているのかも知れない。最後の戦いの角、つまり王はまだきていない。という事は、最初思っていた人物とは異なった人物がそこにあてはまる可能性があるからだ。
 福音派の聖書解釈はどうあるべきか、問題だが、ひょっとすると聖書そのものに、わたしたちの固定観念をぶちやぶる特徴があるのかもしれない。