閉塞感

 教会の閉塞感がよく言われている。高齢者ばかりがいて、若い人がいない。人が減り、またひとり減っていく。変化をもたらしたいけれども、変化を受け入れようとはしない、もたらされない。そのような現実を見ているクリスチャンは閉塞感を感じる。
 閉塞感が問題だ、それを吹き払う何かをかんがえろ、とよく言われている。確かに教会に若い人が増え、さらに多くの人が集うようになる。そうするときっと閉塞感が飛んでいくのだろう。若い人が集まる方法を考えよう、それが閉塞感を吹き払う道だ。そのように言われている。
 でも、はたしてこれでいいのだろうか。現状に閉塞感があるのは事実だろう。しかし、一体私たちは何を基準に閉塞感を感じているのだろうか。若い人が増え、人が増えれば閉塞感が消えていく。つまり、歳をとる、人が減る、そのことのゆえに閉塞感を感じている。この背後にある価値観は、人が増えればいい、若い人が多ければいい、そんな価値観である。マッキンタイアのことばを借りるならば、「外的な諸善」を求める価値観である。日本の社会に染みついている価値観である。実は、教会は日本文化によどむ価値観の中でおぼれている。
 教会の現状に閉塞感を感じるのはいいかも知れない。しかし、何を理由に閉塞感を感じるのか。そこに焦点を当てる必要がある。日本文化の価値観と教会の価値観。その二つの相いれない部分をはっきりと見きわめることから、閉塞感からの脱却があるような気がする。