ハバクク書

 小預言書第八の書であるハバクク書は、バビロン帝国がその勢力をユダにまで及ぼそうとする紀元前600年頃をその背景としています。ナホム書で話題となったアッシリア帝国の時代は終わりましたが、新たに全世界の脅威となっているバビロンとユダの関わりが本書の中では語られています。なお、預言者ハバククがどのような人物であったのかは、全く描かれてはいません。
 
I. ハバククと主との対話(1〜2章)
 これまでの小預言書に登場する預言者アモスやミカ)同様に、預言者ハバククの不平の原因は、ユダの国中に蔓延している不正であり、暴虐です(1:2-4)。暴虐、暴行、闘争、争いが渦巻く中、正しい裁きは行われず、むしろ悪しき者たちが正しい人を取り囲み、栄えているのです。この不正と暴力からの救いを預言者は主に祈り求めています。
 主は、ハバククの不平に対して、答えられます(1:5-11)。暴虐を行うユダに対しての主の審判を実行するために、主は「カルデヤ人」、つまりバビロンを起こされます(1:6)。彼らはみずからの裁きを行い、その軍勢(馬)の能力の高さによって不正に満ちたユダに暴虐をふるいます。王侯たちを虜とし、あらゆる要塞を攻め取っていくのです。彼らを通して、主を神とせず、自分の力を神とするユダの指導者たちへの裁きが現実となります。暴虐に満ちた国に対して、主はカルデヤ人の暴虐をもって裁きを行うと、約束されました。
 しかし、カルデヤ人による裁きのあまりの激しさを想像して、預言者は別の不平を主に対して投げかけます(1:12-17)。聖なる神、きよき目をもって世界を見られる方が、「悪者が自分よりも正しい者をのみこむ」(1:13)ことをゆるされるのか、ハバククは疑問に思います。ユダの指導者たちの悪しきことをハバククはわかっています。しかし、その中にも正しき者たちがいる、その彼らが暴力の権化のようなカルデヤ人に情け容赦なく撃ち殺されることを想像する時、預言者は神の正義に対して疑義を唱えざるを得ません。そこに神は介入されないのか、悪しき者たちの暴力を留められないのか、と不平を主に述べるのです。
 そして、ハバククは主の答えを待ち望みました(2:1)。その時、主は「幻」を「私」、すなわち預言者に与えられました(2:2-4)。今すぐに現実になる訳ではないが、「定めの時」に現実になるからこそ、それを書いて記録せよ、と主は預言者に言われたのです。そして、主がハバククに与えた答えが、「見よ、彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)でした。「彼」と呼ばれているのはバビロンのことです。傲慢で、曲がった彼らにはふさわしい裁きが待ちかまえている、しかし、正しい人を主は見捨てられない。信仰によって、主に信頼し、真実に歩む者には命が約束されている。「悪者が自分より正しい者をのみこむ」ことを神は放ったらかしにはされない、と告げたのです。
 主のハバククに対する答えは、2:5-20に続きます。黄泉のように、死のように、のどを拡げあらゆる国々を呑み込もうとするバビロンに、災いが到来します。「わざわいだ」(2:6, 9, 12, 15, 19)で始まるいくつかの宣告を通して、バビロンに訪れる悲劇が綴られています。バビロンは、自分が他国になした暴虐の報復をそのまま受けます(2:6-8)。他国に暴虐をなし、その人々の血を流し、恥をあたえたからこそ、暴虐と残虐を自らの身に受けるのです(2:15-17)。不当な利息を得、他国の民を滅ぼすという罪を行ったバビロン(2:9-11)、不正で都を築き上げ、労苦した諸国民を火で焼いたバビロン(2:12-14)、何の役にも立たない偶像に頼ってきたバビロン(2:18-19)。彼らの栄光は奪われ、むしろその聖なる宮において世界を統べ治めておられる聖なる主の栄光だけが世界に現れるのです(2:20)。
 2:4の言葉は、新約聖書において何度も引用され(ローマ1:7; ガラテヤ3:11; ヘブル10:38-39)、マルチン・ルターによる宗教改革の土台ともなったみことばです。そこには、まわりの状況がどうであったとしても、正義と善とをなされる主に信頼し続ける者に与えられる命の祝福が綴られています。状況に振り回されてもいけない、自分の力に頼ってもダメである、ただ主により頼むことこそが、命の秘訣であることを私たちに語り続けているのです。
 
II. ハバククの祈り(3章)
 ユダの国内のにある暴虐、より悪しきバビロンによる暴虐、そしてやがて来るべき主の審判の幻を示された預言者は、主への祈りを捧げます(3:1)。この祈りは、かつてなされた主の偉大なみわざを知っている預言者が、やがて来るであろう主の審判を信じて、それができる限り早く来ることを願い求めています。「この年のうちに」(3:2)の繰り返しからも、主の決定的な行動を待ち望んでいるハバククの心が想像できるでしょう。
 この詩には、神が直接みずからの姿を現す様が描かれています。テマンやパランの山というパレスチナ南部の地から、主がその輝きをあらわされます(3:3-4)。敵の上に疫病を下し、荒野を横切り、諸国民を乱れ騒がせて、主が自らの姿を人々に現されます(3:5-7)。主は史上最強の勇士の姿をとっておられます。川や海をその怒りをもって裁き、戦車に乗り、武具をもって来られる主を見て、山々も天体も主を恐れます(3:8-11)。そして、諸国民を踏みつけ、ご自分の民と油そそがれた王を守られるのです(3:12-13)。このような主の到来、つまり「悩みの日」(主の日)の到来は、あらゆる国民のみならず預言者にも恐怖を与えます(3:16)。その恐ろしさのゆえに、あらゆる農作物が実を実らず、家畜もおびえるからです(3:17)。しかし、最後には大勇士である主が、約束されたみわざをなして下さることを信じている預言者は、「悩みの日」を目の前にしても、喜び、勇むことができるのです(3:18-19)。
 わたしたちもハバクク同様に、過去になされた主の偉大なみわざと、約束はされているけれどもまだ現実にはなっていない主の日のみわざの真ん中に立っています。信仰によって、約束が必ず現実となることを確信する時、状況の如何に関わらず、喜びがわたしたちの内にあふれてくるのです。主のみわざを思い起こしつつ、来るべき日を望んで、歩ませていただきましょう。