エレミヤ書21〜34章

 エレミヤ書は民の罪の指摘から始まって、主の審判の予告、主の審判の最終宣告とテーマに従って構成されています。そして、主の審判が確定してはじめて、来るべき回復の予告が語られています。今回は、審判の最終宣告から回復の予告に至る部分を読んでみましょう。
 
I. 避けられないさばき(21〜25章)
 様々な警告が告げられてきましたが、ついに主の厳粛な審判が最終的に通告される時が来ました。それは、ユダ王国の指導者たちが、エレミヤを通して語られた主の言葉に耳を傾けようとしなかったからです。
 ゼデキヤ(ユダの最後の王)に対してバビロンの王によるさばきが預言された後(21:1-7)、民に対して「わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く」(21:8)と主は警告を与えられます。命の道とはバビロン王の軍隊に対して、降伏すること。死の道とは、エルサレムに残り、つるぎと飢饉と疫病で死ぬことです(21:9)。警告は再度ダビデ家に属するユダの諸王に向けられます。「公正と正義を行うことによって王家を保て、そうでなければ、王家は荒れ地となる」(22:2-5)と主は宣言しています。シャルム王(エホアハズ[22:11-12])、エホヤキム王(22:18-19)、コニヤ王(エホヤキン[22:24-30])へのさばきと共に、彼ら共通の問題、つまり王たちは主の牧場の羊を滅ぼす牧者であったことが指摘されています(23:1-4)。しかし、主は王制を否定されている訳ではありません。「一つの正しい枝を起こす」(23:5-6)とも約束され、来るべき正義の王を待ち望んでいます。これらの王に対する審判の言葉に続いて、預言者たち(23:9-32)、預言者達と祭司達(23:33-40)にも主のさばきの言葉が語られています。そして、ユダの指導者たちへのさばきの言葉の最後に、民に対する警告が再度告げられています。主の言葉に従ってバビロンに捕らわれて言った人々を「良いいちじく」、エルサレムに残ったりエジプトへ逃げていった人々を「悪いいちじく」とたとえ、後者に主の審判が下ると告げています(24章)。
 ネブカデレザルがバビロンの王として即位した年(25:1)、主はエレミヤを通して、バビロンによるユダの破壊とそれに続く70年間の捕囚が宣言されます(25:8-14)。主が幾度も警告を与えたにもかかわらず、主の民はそれに聞き従わなかったからです。しかし、ここで注意すべきことは、「70年間」と年限が定められていることです。70年が経った時、主は今度はバビロン王とその民を罰する、とも宣言されています(25:12)。主のさばきは、主の民を滅ぼすことが目的ではなく、その後に来る何かのためです。しかし、70年のあとになにが来るのでしょうか。ここで示唆されているのは、エジプトを含む数多くの国へのさばきだけです(25:17-38)。
 
II. 偽預言者(26〜28章)
 エレミヤが主の最終宣言を語っているにも関わらず、ユダの民はその警告を受け止めようとはしません。むしろ、主の宮(神殿)においてエレミヤが警告の言葉を語った時(7章参照)、祭司と預言者たちはエレミヤを死刑に処すべきだと訴えました。さいわいにも、長老たちの言葉によってエレミヤは助けられました。なぜならば、主の名によって語られたエレミヤの預言は災いを告げるものであり、それを聞いた者は主を恐れ、主の恵みを求めるべきであると彼らは考えたからです(26章)。興味深いことに、エレミヤの時代、「バビロンの王に仕えることはない、バビロンに移された主の宮の器はすぐに帰って来る」と語る預言者が多くいました。しかし、主はエレミヤを通して、これらの預言は偽物である、すぐに回復は起こらない、と訴えています(27章)。
 バビロンによる主のさばきの到来を預言するエレミヤと、それに反対する預言者の対立は、28章におけるゼデキヤ王の時代の預言者ハナニヤとの対峙でクライマックスをむかえます。ハナニヤはバビロンのくびきを負うことを語るエレミヤに対抗して、主はバビロン王のくびきを砕き、二年のうちに主の宮の器が帰って来ると語ります(28:2-4)。しかし、その預言は誤りです。エレミヤは主が彼を遣わしたのではないと宣言し(28:15)、エレミヤの言葉通りハナニヤはその年のうちに死にました(28:16-17)。
 預言者は災厄と共に平和を預言します。災厄が預言されたとしても、民が主に立ち帰るならば、それは止められます。しかし、平和の預言が成就しないならば、それを語った預言者を主が遣わされてはいなかったこと、つまり彼が偽預言者であることが明らかにされます(28:8-9)。エレミヤこそ本物の預言者、エレミヤに反する預言を語る人たちは、偽預言者なのです。
 
III. 希望の言葉(29〜34章)
 それではエレミヤは「平和の預言」をしないのでしょうか。いいえ。審判の確定が記された後、29章から34章にかけて、エレミヤ兄よって語られた来るべき主の回復の預言が集められています。
 29章はエレミヤがバビロンに捕らえ移された人々に対して送った手紙です。そこに長く留まることを前提とし、その町の平安を祈りなさい、と命じられています(29:5-7)。主は平安と希望を与える計画をお持ちである、バビロンで70年が満ちるならば、主はエルサレムに民を連れ帰る、祈りによる主との交わりもその時に回復される、と約束されています(29:10-12)。預言者の祈りさえ禁じられた主でしたが、時が満ちたならば、民と主との交わりは完全に回復されるのです。
 30〜31章は「慰めの書」と呼ばれています。「繁栄を回復する」と言う表現が繰り返されています(30:3, 18; 31:23、その他に32:44; 33:26)。また、捕囚からの帰還が様々な形で述べられています(30:8-9, 10-11, 17, 18-22)。民と主との契約の関係が回復され、神の愛と真実が表され、都は再建され、散らされた者は集められ、祝宴がシオンの山で開かれます(31:1-22)。そして、主はイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てられます(31:31-34)。その時、頑なな心で主に従うことができず、契約を破ってしまったイスラエルの民を主は変えます。主の律法を彼らの心のうちにおき、その心に律法を主が記されます。民は主を知ることができるようになり、主は民の罪を全くゆるされます。従って、ここで約束されている繁栄は物質的なものに限定されてはいません。むしろ、律法に従う新しい主の民が回復され、公正と正義に満ちた国が誕生を指しています。
 「慰めの書」に続いて、主の命令に従って、エレミヤが故郷アナトテにある畑をおじから買い取ることが記されています(32:1-15)。間もなくバビロン王の手に渡され、滅ぼされる地、主の憤りのゆえに覗き去られる地です。しかし、主は民をこの地につれ帰すばかりか、彼らの心のうちに主を恐れる恐れを起き、主から離れないようにようにすることを願っておられます(32:36-41)。回復の預言が確実に実現することを、主の審判を語り続けたエレミヤの言葉と行いを通して、主はその民に告げられました。主の審判は、民の回復のためになされるのです。
 33章においては、間もなく来るべきバビロン(カルデヤ人)によるエルサレムの殺戮と荒廃が告げられています。その一方で、主はダビデの子孫を回復して公正と正義を行う王を立てる、神殿において犠牲をささげ続けるレビ人の祭司を絶やさない、と約束をしておられます。破壊されたエルサレムのすべての働きが、復活します。このように、主の審判はいつも回復を視野に入れています。