イザヤ書34〜48章

 前回の学びでは、イザヤ書の前半を鳥瞰し、「主の審判を通しての民の回復」というイザヤ書の一貫したメッセージを見てきました。今回は、34〜48章を学びつつ、どのように主がその民を回復されようとしているかをみてみましょう。
 
I. 荒野と楽園(34〜35章)
 他国に頼って危機的な状況を乗り越えようとするユダに対する警告(28〜33章)に続いて、エドム(主とその都であるシオンに敵対する国々の代表)とシオン(ユダの都エルサレム)の将来の姿が対照的に描かれています(34〜35章)。エドムは主の憤りの剣を受けて、人が住むことができず、汚れたけものだけしかいない荒野となります。主が預言者を通して語られた通りのことが実現します(34:16)。その一方で、荒野となってしまったシオンは、花咲く楽園となります。特に大切なのは、主に対して目が見えず、耳が聞こえないために厳粛な主の審判の下に陥った主の民の目が開かれ、耳が聞こえるようになる点です(35:5)。これは主のさばきの預言の時の終わりを意味し(6章参照)、回復のみわざが始まったことを示唆しています。ですから、主の厳粛な審判に服し、その結果散らされていってしまった民がもう一度集められ、主の都であるシオンへと帰還します(35:10)。
 
II. 守られるシオン(36〜39章)
 列王紀下18〜20章とほぼ同じ内容が36〜39章に記されています。701年、アッシリヤによるエルサレム包囲という危機な状況がユダの王ヒゼキヤの上に訪れました。彼はかつて主に信頼することを拒絶し、アッスリヤに頼った(7章参照)アハズの息子です。しかし、ヒゼキヤは彼の父とは異なる行動をとります。国家的な危機的状況の中で、主に信頼することを選び取ったからです。たとえアッスリヤ軍の長であるラブシャケが、主により頼むこと、またはエジプトに頼むことは愚かであると宣伝し(35:4-10)、主に頼むことを禁じたとしても(36:14-20)、ヒゼキヤは主への揺るぎない信頼を選び取り、預言者イザヤに主に祈るように要請しました(37:3-4)。ヒゼキヤ自身も主に祈りました(37:14-20)。そして、これらの祈りに応えて、主はアッシリヤの軍勢の敗北を宣言され、事実、この預言のことば通り、アッスリヤの軍勢は主に撃たれ、その都であるニネベに帰還し、エルサレムは奇跡的に救出されました。「主への信頼による勝利」という信仰者の理想的な姿が、ここに描かれています。ですから、ヒゼキヤ王はイザヤが預言した「ひとりの男の子」(9:6)の側面を持っています。
 しかし、ヒゼキヤも完璧ではありません。当時はまだ小国であったバビロンの王が使節を彼に送った時、彼はエルサレムのすべての宝物を彼に見せてしまいます(39:1-2)。これを受けて、イザヤは来るべきバビロンによるエルサレム崩壊と民の捕囚を預言します(39:5-7)。事実、アッスリヤの脅威から守られたシオンの都も、586年、バビロンによって滅ぼされてしまうのです。
 主がその民と王に求めておられた生き方は「なにものでもなくただ主に信頼する」ということでした。ヒゼキヤの信仰によって、ユダへの主の厳粛なさばきは延期されましたが、それがなくなったわけではありませんでした。アッスリヤに替わって、バビロンによってユダへの厳粛な審判が下されるのです。そして、その審判の向こう側に、35章で約束されている回復があるのです。
 
III. 主の慰めと「新しいこと」の到来(40〜48章)
 40〜55章は、イザヤがバビロン捕囚の時代(紀元前6世紀)の民に向かって語っている預言です。39章で予告されたバビロンによるシオンの崩壊は現実となりました。「アッスリヤ」によってユダに主のさばきが下される、と語られていましたが、主の計画は変更となり、別の大国バビロンによって現実となりました。しかし、バビロン捕囚は主の続くみわざへの始まりに過ぎません。
 40〜41章は全体の序論です。ここでは、イスラエルに対する主の刑罰の期間が終わり、イスラエルのとがはゆるされ、主の慰めの時が到来したこと(40:2)、預言者を通して語られた主の言葉は状況が変化しようとも必ず実現されること(40:8)、主は他国の偶像の神々とは比較にならないほど力強い創造主であり、「主を待ち望む者」(40:31)、つまり主に信頼する者にその偉大な力を与えること(40:12-31)、主こそが世界の歴史を支配しておられる方であり、それは東から人(ペルシア王クロス)を選び、呼ばれたのは主であることから明らかであること(41:2-4)、主こそが唯一の神であり、他の偶像は無に等しいこと(41:25-29; 44:6-7参照)、だからこそ、主が「選んで捨てない」と言われるイスラエル、主のしもべは。どのような現実に直面しようとも恐れる必要がないこと(41:8-10)。暗黒の中で全権者である主の恵みに信頼することこそが希望への道であることが述べられています。
 上記のテーマは、42〜48章でさらに展開されていますが、特に心にとめたいことが三つあります。まず、イスラエルは主が選んだ主の証人であること(43:10, 12; 44:8)。イスラエルが諸国民の中で何か偉大なことをすることによって、主の証人と呼ばれる訳ではありません。むしろ、主がなされる偉大な救いのわざ、つまりバビロンの崩壊を通して、主の救いのわざの証人にイスラエルがなり、主こそが唯一の神であることを諸国民の間で示すことが告げられています(43:8-13)。主に従うことを拒んでいた彼らの罪を主自らがゆるし(43:25-44:5)、主に愛された者として、主のなさる救いのわざ、捕囚からの回復を経験することによって、彼らは主こそが唯一の神であることの証人となります(43:4-7)。主の恵みのみわざの証人にされるのです。
 次に、偶像が全く無力であり、それに信頼することが愚かであることが皮肉交じりで語られています(44:9-20; 45:14-17; 46:1-7)。偶像は人々にとって重荷になる一方で、主はイスラエルをその荷として背負い、持ち運び、救う、という約束(46:3-4)からも、偶像と主との差異は明白です。バビロンという偶像に満ちあふれた国の崩壊に接する時、たいへん現実感あるものとしてこのことをイスラエルの民は感じました。
 最後に、主がなされる「新しいこと」。かつてなされたことが重要なのではありません、それを思い起こす必要もありません。主が間もなくなされる新しいことに注目しなさい、と語られています(43:18-19)。それでは、主がなされる新しいこととは何でしょうか。それはペルシア王クロスを選んで、バビロンを打ち砕き、エルサレムの神殿の再建への道を開かせ、荒れ跡になったユダを再建することです(44:24-28; 45:13)。クロス自身は異教徒であり、彼は主がみずからを特別な働きに選んだことは知りません。しかし、そのような彼を民の羊飼い(王!)とし(44:28)、その結果、主こそが唯一の神であることを彼に知らせようと主は語っておられます(45:1-7)。
 バビロンヘのあざけりの歌(47章)とは対照的に、隠されている新しいことをイスラエルに主は告げておられます(48:1-11)。新しいこと、それはバビロンへの主の審判です。そして、そのことを経験した時、主の民はバビロンから出て、シオンへと帰還すると主は予告しておられます(48:20-21)。